目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第4話  この程度の入りでは……

 江戸きっての盛り場の浅草でも、浅草寺本堂の奥、いわゆる〝奥山〟と呼ばれる広大な一帯は、浅草寺でたびたび行われる神仏のご開帳に合わせ、見世物興行が行われることで名高い。


 奥山の中でも一等地、本堂の北西には、大がかりな小屋がいくつか立ち並ぶ。

 小屋とはいえ、間口十三間(二十三・六メートル)奥行十四間(二十五・四メートル)の大小屋である。


「どれどれ。表の様子はどないだ」

 庄助が、〝あまからや 庄助〟と文字が入った半纏の襟を手で掻き寄せながら、木戸口から外を窺った。


 振り向いた庄助が、猿顔をほころばせる。


「兄ぃ。物珍しげに見て歩いてる、暇人が多おまっせぇ。見物は日増しに増える一方でっせぇ」


 喜三郎の小屋のすぐ北には『大坂下り女かるわざ』の幟が、一際ぐんと背の高い〝高小屋〟に、はためいている。


「しっかし、あの女軽業の〝大坂下り〟かて、ええ加減なもんやで。なあ、兄ぃ」


「それは、お互いさまじゃねえか」

 喜三郎は鼻先で笑った。


 喜三郎も肥後熊本生まれで、大坂の出ではない。それでも、見世物の通例に倣って女軽業と同じように『大坂下り』を謳っている。


 実際、大坂での興行の成功を基に江戸へ下っているのだから、まんざら嘘というわけではない。生活の本拠も、八年前から大坂に置いていた。


 小屋の前に置かれた、招き人形の『近江のお兼』が、『風流生人形』と書かれた看板を背に、暴れ馬の手綱を高下駄で踏みつけ、動きを封じている。


『近江お兼』は、歌舞伎舞踊『晒女(さらしめ)』の通称である。近江の国を舞台にした、鎌倉初期の伝説で『古今著聞集』にもある物語に材を取った有名な演目で、文化十年(一八一三年)六月、江戸は森田座、大切所作事で初演された。

 男勝りの田舎娘で、怪力の持ち主、お兼が、暴れ馬を止める。


 続いて、琵琶湖の荒くれた漁師どを相手に立回りを演じ、その後、〝口説き〟から盆踊りの唄とへと進み、散らしで布晒しとなる、勇壮でいて華やかな舞台である。


 喜三郎は、お客さま受け第一、史実とずれようが平気である。


 品が落ちようと、色気も過剰に演出する。

 お兼も、大衆受けを狙って、大きめの格子柄に黒襟の小袖を着た、当世風の婀娜っぽい美女にしつらえられていた。


「お兼さん。あんたの怪力で、お客さんをたくさん引っぱり込んでくださいよ」


 小日向屋が、冗談交じりに、招き人形に向かって手を合わせながらやってきた。

 幸いにも、小日向屋の店に地震の被害はなく、当初の予定通り、金主を引き受けてくれていた。


 小日向屋の家業は、蔵前の札差である。


 職人に過ぎない喜三郎らとは、着るものからして、雲泥の差、格が違う。何処へ行くにも、供の者が二~三人は従いている。


 今朝の日向屋の出で立ちは、黒羽二重の表着に、巾の狭い緋博多帯である。

 表地が地味で裏地が派手。腹切り帯、首括り帯と言われるだけあって、黒い着物に、帯の赤い色が目立っている。

 頭巾を襟巻きにしているのも、通人っぽい。 


「こりゃどうも。朝からわざわざご苦労様です」


 長身の喜三郎は、ことさら丁寧に頭を下げた。


「仕上がり具合は、どんなもんですかな」


 でっぷりと腹が出て、箱河豚のように四角い顔が特徴の小日向屋は、鋭い目で、小屋内を見渡した。


「そりゃもう。この前とは違います。お任せなすってください」

 喜三郎は虚勢を張った。


「大坂で興行した『鎮西八郎島廻り 生人形細工』の繁盛を見込んで、江戸に下ってもらったのですからな」


 小日向屋は、まるで自分が喜三郎の才能を見いだしたかのように、恩着せがましく言った。


(確かに金を出してくれたのは、小日向屋さんだ。けどよ。小日向屋さんは、新門辰五郎親方の話に乗っただけじゃねえか。江戸での興行の渡りをつけるために、俺が見本の人形を送った先は、辰五郎親方でえ)


 喜三郎は、心の内で、茶々を入れた。


「ねえ、喜三郎さん」

 小日向屋は、皮肉っぽく唇の端を歪めた。


「わたしは、これまでに、どれだけ小判を注ぎ込んだことやら」

 小屋の中が暑いからか、首に巻いていた頭巾を外し、従いてきた丁稚に、ぞんざいな手つきで渡した。


「そりゃあ、小日向屋さんのご恩は計り知れません」

 喜三郎は、大袈裟に持ち上げた。


 実際、小日向屋のお陰は大きい。


「おかげさまで、亀八を追い越せましたしね」


 ――生まれ育った、肥後熊本時代、地蔵祭りの〝つくりもん〟で、安本亀八らと腕を競い合っていた喜三郎は、狭い肥後から大きな場へと飛躍を期した。


 まずは大坂に出て、人形を作りながら、徐々に興行関係に渡りをつけた。


 ついに昨年の安政元年、西の見世物の本場、大坂は難波新地で興行を果たした。

 かの名高い曲亭(滝沢)馬琴の作で、葛飾北斎挿画の読本『椿説弓張月』の主人公、鎮西八郎の活躍の場を表した興行だった。


〝生人形〟の名目が、初めて使われた、記念すべき興行は、同郷の安本善蔵の加勢を得て、大当たりし、『真ニ迫るが如くよくできしなり』との評判になった。


 同郷で競い合った亀八は、嘉永五年、喜三郎に先んじて、大坂の難波新地で『いろは比喩』を興行していたから、出し抜きたかった。


 なんとしても、先に江戸に下り、亀八に差をつけたい、鼻を明かしたいと思っていた喜三郎にとって、小日向屋が金主を引き受けてくれたことは、渡りに船だった――


 だが……。


「今年二月の興行の入りは、収支がとんとんでしたからね。ほんとうに頼みますよ」


 小日向屋の、念押しの台詞は、耳に胼胝ができている。


 小日向は、職人である喜三郎に、敬意を表してか、丁寧な言葉遣いだが、かえって、慇懃無礼、喜三郎等を軽くあしらっているように思えた。


 金主の小日向屋に、損はさせていない。

 期待ほどではなかったにせよ、儲けは出している。


 だが、小日向屋は、もっと一攫千金を狙っていたのだろう。

 期待外れと落胆されるのが、どうにも我慢できない。


 正月の興行がまたも不首尾と判断されれば、江戸での興行の後ろ盾をなくす恐れもあった。


 生人形の大小屋には、元手がかかる。

 上手い具合に、新門辰五郎が、小日向屋に匹敵する、有望な金主と繋ぎを取ってくれるか、わからない。


  期待と不安の種が入り交じって、喜三郎の中で、同時に芽吹いていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?