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第2話  あの花魁がそんなに大切なのか?

 大きな余震が来た。

 柱が倒れ、喜三郎を襲う。危うく三尺ほどの差で躱して逃れたものの、冷や汗が頬を伝った。


「そない言うたら、昨日の読売(瓦版)で、《大地たちまちに裂破れ一条の白気発す。その気、斜めに飛さり、金龍山浅草寺の五重のなる九輪を打まげ、散じて八方へちる》って書かれてましたがなー」


 庄助の声は、無邪気に高揚している。

 危機さえ楽しんでいるように思える。


 庄助のような能天気は、災厄に遭遇しても『みんな死んでも、わいだけは助かる』と信じているのだろう。


「あそこだ」

 人波の中に、小日向屋のでっぷり太った姿が見えた。喜三郎は、小日向屋の無事な姿にほっとした。


 小日向屋は庇うようにしながら、花魁の手を引いている。


(あの女郎がそんなに大事なのか)


 つい先程、小日向屋と一緒に通された引手茶屋の座敷での光景が、喜三郎の脳裏に蘇った。

 花魁の、つんと済まして高慢そうな顔が頭をよぎる。


 金のない喜三郎は、人扱いされていないように思えて無性に腹立たしかった。


 今、目の前にいる花魁も、煌びやかで仰々しい仕掛け(打ち掛け・遊女の晴れ着)は、座敷と同じ、三枚重ねのままである。

 本帯を前で結んだ花魁の〝立兵庫〟に結った髷は、長い簪、大きな櫛や笄が、いかにも重そうである。

 顔よりも着物や髪型の奇抜さに目を奪われる。


「放して。放しておくれなんし。ととさん、かかさんが、心配なんし」

 どうやら、廊主夫婦の安否が気になると見える。花魁は、小日向屋の腕から逃れようと抗っている。


 はぐれたのか、見世の若い者や、花魁つきの新造や禿の姿は見えない。


「黛。おまえさんなんぞが行って、何になるね。早く来なさい」


「けんど、恩のある〝親〟を捨てて逃げちゃあ……」

 小日向屋と黛の押し問答が続く。 


 喜三郎に気づいた小日向屋が、赤ら顔をさらに猩々緋に染め、

「おお、喜三郎さん。頼む。黛が言うことを聞かなくて困ってるんですよ。手助けをお願いしますよ」

 必死の形相で訴えてきた。


 立ち並ぶ見世のうちから、蟻の引っ越しのごとく、高価な品が次々に運び出される。

 火事で焼ける前に、少しでも運び出す算段だろう。


 何度も火災に遭って焼失している吉原である。欲得ずくで、手際が良い。


 通りは、避難の人と荷車で、ますます大混乱する。急ぐ荷車に引っかけられては敵わない。


「さあ、逃げるんだ」

 喜三郎は、黛の手首を握った。

 折れそうなほどの細さに驚く。


「いや。いやなんし。せめて無事な姿を見てから……」


 黛は、大仰な髪飾りのため、首を振ることさえできぬ有様である。

 着物や髪の大層さ、重さで、自分の体の動きさえままならない。


「馬鹿。大概にしろい」

 喜三郎は、半狂乱になった黛の頬を叩いた。


「亡八から見れば、てめえは金で買った、ただの品物じゃねえか」

 黛の目が、驚きで大きく見開かれる。


 亡八とは楼主を揶揄する言葉で、忘八とも言い、仁義礼智忠信孝悌の八道徳を失っている業態に由来した。


「火事だ。西河岸で火の手が上がったぞ」


「角町もてえへんだ」などと誰かが叫ぶ。


「早くしろってんだ」

 喜三郎は、気を削がれて大人しくなった黛を、抱きかかえるようにして急かせた。


 ごてごてした〝人形〟のような黛の手を握り、難儀しながら大門へと引き返した。

 うろたえる小日向屋と、騒ぎを半ば喜んでいるような庄助が後に続く。


 堅固な造りの黒塗り板葺きの冠木門は、無事だった。


「さあ。早く」

 やっとの思いで大門を潜り抜け、田畑に挟まれた、五十間ばかりの道に出た。

 逃げ惑う衆人の群れは、まさに祭の雑踏の様相だった。




 ようやく、日本堤と呼ばれる山谷堀の土手に出た。

 堤の両側に並ぶ、葭簀張りの水茶屋は、ひしゃげ、潰れているが、粗末な造りゆえ、却って怪我人は少なそうである。


 土手道を、人や荷車が走る。


「婆さん。危ねえ。そこにいちゃ、荷車に轢かれっちまう」

 喜三郎は、腰を抜かせていた老婆を助け起こし、安全な道ばたに避難させた。


 振り返って見れば、早くも吉原のあちこちから火の手が上がり、夜空を緋色に染めている。


 暗い空から、季節を先取りした、白いものが、ちらほら舞い落ちる。

 喜三郎は、色の妙に、思わず息を呑んだ。


「奥のほうの見世の客や女郎で、逃げ遅れたのも、ようさんおるんと違いまっか。くわばら、くわばら」


 庄助が、興奮冷めやらぬ顔で呟いた。


 黛は、吉原の方角を見やりながら、唇を噛んで震えている。


「良かった。良かった。喜三郎さん。ありごとうございます」

 小日向屋が、喜三郎の手を大袈裟に握った。

 万事、終わったとでもいうように、すっかり安堵の表情を浮かべている。


(小日向屋さんの気が知れねえな)

 小日向屋の店は頑強な造りだから、この程度の地震では、びくともしないだろう。


 だが、大火となった場合、類焼の恐れは多分にある。

 女房が地震に驚いて、大怪我でもしているかも知れないではないか。


 喜三郎は、小日向屋に意見できる立場ではない。


「いえ。お安い御用で」


 自分の店や女房の心配より、贔屓の花魁の無事を無邪気に喜ぶ、小日向屋の〝通人〟ぶりに、苦笑するしかなかった。




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