安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)。
間もなく浅草寺の夜四ツ(午後十時)の鐘が鳴る頃だった。
吉原では、鐘を合図に大門が閉められ、潜り戸からの出入りとなる。
粋を凝らした妓楼は、見世に揚がる客、帰る客で喧噪を極めている。
遣手と客の掛け合う声、禿の「アイアイ」と返事する甲高い声が、かまびすしい。
人形師、松本喜三郎は、大門の手前、待合の辻で、庄助とともに、小日向屋藤兵衛を待っていた。
小日向屋は、馴染みの花魁との後朝の別れが長引くのか、なかなか姿を見せない。
「ん。これは……」
喜三郎は、地の底から響くような音に、描きかけの絵筆を止め、耳を澄ませた。
「あ、兄ぃ」
庄助も、敏感に異変を感じたらしく、何か言いかけた。
「地震が来る」
喜三郎が叫びながら、頭を庇って反射的に身構えた、そのとき。
地上が激しく波立った。
身体が下から突き上げられる。
似面絵を描いた漉き返し紙が、手から離れて、虚空に散る。
飛ばされた用水桶が、喜三郎の目の前を横切った。
喜三郎は、懸命に足を踏ん張って持ちこたえた。
続いて横揺れが襲う。
妓楼が、蒟蒻のように、あり得ないほどくにゃくにゃ、左右にしなる。
立っているだけで精一杯だった。
小柄で軽い庄助が、吹っ飛ばされて転び、地面に這いつくばった。
地が裂け、天が堕るかと驚いた刹那、見る見る楼閣が傾く。
仲の町の茶屋に混じって立つ商家が覆る。二階が抜け、一階建てになる。
悲鳴と怒声が耳を劈く。
音を立てて梁が落ち、引手茶屋の門口にいた客と女郎が挟まれる。
倒れる柱に薙ぎ倒され、動かなくなった遣り手。
頭から血を流しながら、泣きわめく禿。
たちまち阿鼻叫喚の地獄絵となった。
茶屋や妓楼、店のうちから、次々に人が転がり出る。
こけつまろびつしながら、一斉に大門を目掛けて殺到する。
吉原は、大門しか出入り口がない。
「よりにもよって、ついてねえ」
浅草寺奥山での、生人形の興行が終わってから、約四か月が経っていた。
年明けから始める、次なる興行の打ち合わせのために昨日、江戸に下った途端の災難である。
「小日向屋さんは無事か」
『正月興行への景気づけ』と称して、喜三郎や、庄助ら〝口上〟たちを、吉原遊びに連れてきてくれたのが、興行の資金を提供する〝金主〟の小日向屋だった。
喜三郎は、ひとの動きに逆らい、小日向屋が登楼している、江戸町二丁目の佐野槌屋を目指した。
倒壊した家屋や、通りに散乱した瓦などが邪魔になって、夢の中で藻掻くように、容易に先に進めない。すぐそこに見えても、遠い。
「早えとこ大門から外に逃げないと、火が厄介だな」
吉原は、遊女の逃亡や盗賊の侵入を防ぐため、ぐるりが鉄漿溝(遊女が歯を染めた鉄漿の残りを捨てたため、水が鉄漿色になっている溝)という名の、二間幅の堀割で囲まれている。
大きな火災となれば、たちまち逃げ場を失う。
「こないなときに、あの辰五郎はんがいたはったら、心強いでんのになあ」
有名な町火消し、〝を〟組の頭領、新門辰五郎は、浅草一帯の興行を取り仕切っている顔役でもある。
喜三郎らを、金主の小日向屋と引き合わせてくれた人物でもあった。
「吉原は、町火消し四十七組の管轄外だ。どんな大火になっても駆け付けてもらえない場所と来ているからな」
辰五郎がいたとしても、どっちみち手を出せない。
「早く、小日向屋さんを見つけねえと……」
まだ火の手は見えない。
だが、楼閣内では既に、あちこち燻り始めているはずである。
着の身着のまま逃げ惑う客や、寝乱れたままの姿の女郎。
大事な荷物を運び出す、見世の若い者。
群衆の流れに逆行しながら、気ばかり焦った。