バンとダイシンはそろって酒場の入口を見やった。
女性がひとり靴の踵を鳴らし、真っすぐにカウンター席まで向かってくる。テーブルに張りつきながらオレンジジュースを飲み直すバンのとなりに彼女は音もなく着席した。
ダイシンが顔をほころばせ、彼女へ水の入ったグラスを差しだす。
「お帰りなさい、グライナ。夜遅くまでご苦労さまです。なにか、進展などは?」
「ううん、なにもないよ」
女性にしては低めの凛とした声音が響く。
「でも今日も、南区のほうで1人やられているようだね」
「もう両手では数え切れないほどですね……」
ダイシンが思案するようにひげを揉む。
オレンジジュースをやっと飲み切ったバンは、なんとなくとなりの女性へ視線をやった。
短めの金髪が照明灯の黄色い明かりに映えていた。その横顔は鋭利に整っており、キリっと引き締まっている。
スラリと均整の取れた身体に薄手のコートとショートパンツを身につけ、太もものホルダーには……と、そこまで見てバンは首をかしげた。
「ん?」
となりの女性と視線があった。猫のようにしなやかな金色の瞳が胡乱げにバンを射抜く。
その瞬間、バンは目を見開く。
「あッ! あの時のくそ女――!」
昼間の事件現場がありありと脳裏によみがえった。こちらは野次馬として立っていただけなのに「邪魔」だと思いっきり突き飛ばされたのは記憶に新しい。
今もその時に打ちつけた尻が痛いのだ。思いだすだけで苛立ちがわいてくる。
女性はじっとバンを見てくる。やがて得心した様子でうなずき、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ああ、いたね。そういえば現場に。どんくさい男がひとり」
「ど、どんくさいだと……!?」
バンはその物言いに思いきり面食らった。
「なんだってんだ!? いきなりその言い草は――!」
「別に事実を言っただけだけど?」
女性は悪びれもせず形の整った眉をつりあげる。
信じられない。なんだこの女は。
初対面の人間に向けて開口一番に言うことか!?
思わず目を剥いたバンが手を震わせて立ちあがると、傍観していたダイシンは苦笑する。
「まあまあ、2人とも。そこまでにしておきなさい」
なだめられ、女性は再び小さく鼻を鳴らした。バンからそっぽを向いてコップに口をつける。
その様子を一瞥してダイシンがバンに顔を向けた。
「バン、紹介しますよ。彼女はグライナ。組織のひとりです」
「な……なんだよ。組織って」
聞きなれない単語にバンは苦い表情を浮かべる。
ダイシンが軽く手を打った。
「ああ、まだ言っていませんでしたか。そもそもバン……あなた、『裁き』のことはさすがにご存じですよね?」
ふん。馬鹿にするのもたいがいにしてほしいものだ。
バンは椅子に座り直し、つっけんどんに答えた。
「ああ。……それに、この女が追っていくところも見たよ」
裁き――この都市で頻出している殺人のことだ。目の当たりにしたのは今日が初めてだが、都市で話題になっていることは以前から知っていた。
あの時、突如として通りに響いた銃撃の音。撃たれた被害者が蒸発して消えていくさまは、今も脳裏に焼きついている。
空からは赤い雪が降り、飛び散った血痕に溶けていく光景を――
「私は裁きを調べる組織の長をしているんですよ。グライナも協力者のひとりです。無差別ともいえる殺人。その犯人を、私たちは追っているのです。まあ、非公認ではあるのですが」
黙りこむバンにダイシンは肩をすくめてみせた。
「ですが、その危険性ゆえ人手不足でしてね。猫の手も借りたいくらいなんですよ」
突発的にいやな予感がした。となりではグライナがすまし顔でコップの水をあおっている。
ダイシンはにっこりとほほ笑んだ。
「……ここまで言えば、わかりますよね?」
バンは無言で席を立つとそそくさと身を翻した。瞬間、一気に出口へ向かって駆けだす。
――ダイシンの動きは速かった。勢いよくカウンターを飛び越えた巨躯の初老は、酒場を走り抜けるバンの首根っこをつかむとグイっと引っ張りあげた。
力ではこの大男に勝ち目はない。
「や、やめろォ!」
ジタバタともがくバンを周囲の店員や客が憐れむように見ている。もはや抵抗は無意味なのだ、諦めたほうがいい。彼らの視線は言外にそう告げているようにも見えた。
ダイシンはバンのジャケットの襟首をつかみながら、いたって穏やかな声で言った。
「あなたに拒否権はありませんよ。ツケはすでに10万を超えています。このままでは経営にも影響がでます」
「い、いやだ! 俺は働きたくねえんだ! しかも殺人事件の調査だと!?」
下手したら死ぬような仕事ではないか。そんなの無理に決まっている――
救いを求めて天を見あげると、巨躯のひげ面男がにっこりとバンをのぞきこんでいた。
その背後には照明の黄色い光が輝き、彼の笑顔をさらに煌めかせている。
「では、先にここで散りますか?」
ダイシンは片手の指をバキボキと鳴らし始めた。その拳で叩き潰されれば命はないだろう。なにより体格が違う。バンは背に冷や汗が伝うのを感じた。
ほほ笑みを顔に浮かべたまま、ダイシンがバンの耳もとで囁く。
「組織で働かせてください。はい、復唱どうぞ」
「……そ、組織で……働かせてください……」
ダイシンは満足そうにうなずくと、パッと彼の襟首を離した。その勢いで床に転げ落ちたバンは、打ちつけた身体の鈍痛にうめき声をあげる。
弾かれたように頭上を振り仰ぐと、ひげ面男は眼下に彼を見おろして柔和に目を細めた。
「殊勝な態度ですね。それでよいのです」
バンはもはや立ちあがる気力もなく、深くうなだれる。
……すごく厄介なことになってしまった。
この男に助けられたのは間違いだったのかもしれない――
遠目にこちらを見ていたグライナの瞳は、ひどく冷めた色をしているのだった。