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第3話・なごみ亭にて

「なあ、聞いてくれよ。今日はマジで散々な日だったんだ。キオウ……いや、金貸しに大勢で殴られるわ、殺人現場には遭遇するわ、変な女には突き飛ばされるわで」

「すべてあなたの身からでた錆ではないですか?」


 うだうだと愚痴るバンを見おろし、巨躯の初老――ダイシンはカウンター越しにグラスを磨きながら苦笑した。

 茶色のひげを口もとにたっぷりとたくわえ、筋骨隆々とした肉体にエプロンを纏っている男だ。淡いピンクのエプロンは彼の身体のサイズにまったくあっておらず、今にもはち切れんばかりである。

 バンはそんなダイシンの言葉にムスッとしたあと、カウンター席にだらしなく突っ伏した。

 身体を少しでも動かすだけで全身に鈍痛が走る。それに顔をしかめ、彼は盛大にため息をついた。


「ひでえなあ、ダイシン。もういいよ。ヤケ酒だ、ヤケ酒」

「ジュースで我慢しなさい」


 ダイシンがバンの鼻先にオレンジジュースの入ったコップを差しだしてくる。コップに反射するバンの顔は、あちこちが赤く腫れていた。今日だけでこのありさまだ。


 ……はあ、思いだすだけで萎えてくる。


 中央区の南にある小さな酒場、なごみ亭。

 酒と香辛料の匂いがほのかに漂う、窮屈な古材造りの店だった。薄暗い店内に照明灯の黄色い光が点在して照らしている。その下ではまばらに客がおり、すでに酔いつぶれている男もいれば数人で食事をしている者もいた。

 歩くたびに床の木目が鈍い音を立てて軋むような年季が入った店だ。店内に入って左右にテーブル席が並び、奥に小さなカウンター席があるというシンプルな造り。

 壁には絵の具をでたらめに塗りつぶしただけにしか見えない、チープな絵画があちこちに雑な感じで飾ってある。その間には古びた小さいテレビが設置され、今はモノクロの無声映画が流れていた。

 今は2人の店員が業務をこなしており、カウンター席に座るバンに時折、白い目を向けていた。

 席にベターッと這いつくばりながら、バンは構わずダイシンを見あげる。


「なあなあ、ダイシン。ちょっとだけ金貸してくれねえか? このままじゃ俺、キオウに殺されちまうよ」

「ダメです」

「ぐっ……なんだよ、優しくねえなあ。なあ、ほんと頼む。マジでこの通り。一生のお願い」


 バンは頭を深くさげるものの、ダイシンの声色は相変わらず冷たいものだった。


「ダメったらダメです。大人が甘えないでください」


 あごひげを緩く撫でると、彼はふと思いだした様子で首をかしげる。


「そんなことより、記憶のほうはどうなっているのですか? なにか思いだしましたか? この都市にきた目的、とやらを」

「……いや、全然」


 バンはおもむろに椅子の背へもたれかかり、顔を上に向ける。

 黄色く輝く照明の光に目を細めた。


「さっぱりだ。なにもわかんねえんだよな」

「ふむ」


 ダイシンは次々と手際よくグラスを拭きながら肩をすくめてみせた。


「一部の記憶喪失、ですか。さすが海に浮いていただけはありますね」

「んー」


 そうだ。ダイシン曰く、バンは都市近くの海に浮かんでいたという。そのせいかは知らないが、記憶の一部が欠落しているのだ。

 ダイシンはそんなバンを助けてくれた恩人だ。助けてくれただけではない。金もなく記憶もなく、行く当てもなかったバンを、こうして匿い今も世話を焼いてくれているのだから。

 本当にダイシン様には頭があがらない。神として崇め、ダイシン教を布教させようかと本気で考えているほどだ。


「いったい、その前はなにをしていたのですか? 覚えてます?」

「うーん。確か……えーと、なんだっけ。わからん」


 はあ……とダイシンは大仰にため息をついた。


「困った人ですね。まったく」

「いやいや、覚えてることだっていっぱいあるんだぞ。前にいた街じゃ、確か女に騙されて金すられたっけ。それで家賃払えなくなってアパート追いだされたんだよな~。借金取りにはいつも追われまくってたし」

「身ひとつで海を渡り、逃げてきたというところですかね。あなたのことですから、この都市にきたのもろくな理由ではないでしょう」

「つれねえなあ……」


 オレンジジュースをちびちびと口に含みながら、バンは思わず天を仰いだ。

 本当はジュースではなくて酒が飲みたいのだが……視界にちらりと入った壁掛け時計の時刻は夜八時を過ぎている。

 なにが悲しくて、夜の酒場で大人がジュース片手に駄弁っているのか。しかもその相手は色気の欠片もないひげの大男である。

 ぼんやりと思索に耽っていると、不意にダイシンが改まった様子で言った。


「さて。そろそろ頃合いですかね」

「ん?」


 首をひねるバンにダイシンはグラスを拭く手をとめ、凄むようにカウンターから身を乗りだしてきた。


「これからは、あなたにも働いてもらいますよ」

「は、働くぅ?」


 ――これは思ってもみなかった展開だ。バンは思いきり顔をしかめる。ダイシンにとっては以前から考えていたことだったらしく、彼を眼下に冷めた目で見やった。


「いつまでもタダでここに匿ってもらえると思いましたか? 私はそこまで寛容ではありません。自分の衣食住の面倒くらいみてください」

「え、ええ~……」

「ええ~、じゃありません。あなた、自分の年齢くらいは覚えていますよね?」


 う……とバンは言葉に詰まるが、悲しいことにそれはハッキリと記憶にあった。できることなら忘れていたかった現実だ。


「に、25歳……です」

「わかりますよね。あなたはもう大人なのです。自立して然るべき年齢なんですよ」

「ぐっ……」


 ダイシンの淡々とした精神口撃が耳に痛い。痛すぎる。

 両耳を押さえるバンに、ダイシンはなおも続ける。


「しかもあなたを匿ってからもう三か月。その間、あなたはなにもせず、寝て起きては賭場に行き、あちこちで酒を飲み、挙げ句の果てには新たな借金までこさえて」

「あー! わかった、わかった! 俺が悪かった! 悪かったよ。これからなんとかするから!」


 これ以上責められるのは精神がもたない。バンは耐えきれずに椅子から飛びあがっていた。

 その振動でオレンジジュースの残りがコップから溢れて、木製のカウンターテーブルを濡らす。思わずでた大声にハッとして周囲を見やると、ぽつぽつといる数少ない客が怪訝そうにバンを見ていた。

 彼は小さく咳払いをして椅子に座り直し、ふとため息をつく。

 ダイシンが無言で渡した布巾を受け取り、こぼれたオレンジジュースの雫を拭いながらバンは懺悔するように言った。


「いや、実際のところ……わかってんだよ。わかってんだけどさぁ……」


 昔からの、というか生まれた時からの気質なのだ。そう簡単には変えられない。これは根の深い話なのである。

 そういえば昔はよく父に兄と比較されては怒られていたっけ……バンは思いだして遠い目をする。

 だが、いくら指摘されたところで優秀だった兄のようにはいくはずもないのだ。


「俺は、兄貴とは違うしな……」


 ポツリと言葉が漏れる。そのつぶやきにダイシンは首を振り、ふと優しい顔になって言った。


「人と比べても、今は仕方がありません。ですが過去の、昨日の自分を超えることはできるかもしれないでしょう?」

「む……」


 このむさいおっさん、なかなかいいことを言うではないか。その通りだ。理屈は痛いほど理解できる。


 だが――なんかな、やる気がでないな。


 バンは布巾を横に退けると、再びカウンターテーブルにベターっと張りついた。

 ダイシンを見あげ、


「んで? 働くって、なんの仕事をするんだ? とりあえず聞いといてやるけど」


 バンが気だるげに問うた時、入口のカウベルが軽快に鳴り響いた。

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