薄っすらとまぶたを持ちあげると、カモメたちがゆったりと飛んでいるのが見えた。緩やかに弧を描きながら、静かな海の上を羽ばたいている。
バンはぼんやりとしばらくその様子を眺めていた。
あー、今日も平和だなあ。
「――って、んなわけあるか!」
勢いよく地面から起きあがり、バンは全身を襲う鈍痛に顔をゆがめる。無造作にはねた紺色の短髪はさらにボサボサになっているし、ところどころ穴の開いたジャケットは思いきり肩からずりさがっていた。
着古しのジーンズには血がこびりついている。
周囲はすでに誰もいなかった。バンだけがぽつんと取り残されている。太陽の位置はまだ高く、柔らかな日差しに目を細めた。そんなに長い時間、気を失っていたわけではないらしい。
どうやら死は免れたようだ。
ホッとしつつ、霞んだ視界をクリアにしようとバンは頭を振る。
「んん?」
すぐそばに紙片が落ちていた。ああ、キオウが最後に投げて寄こした紙だろう。痛む身体をこらえて手を伸ばし、乱雑に紙をつかみ取る。
その場に胡坐をかくと、バンは紙面を覗きこむように見やった。
借用書だ。しかも手書き。角ばった達筆な文字で、14日後に再び取り立てにくると書いてある。
バンは深いため息をついて紙面を雑に折りたたみ、ジーンズのポケットにねじこむ。
はあ、最悪だ。……まあ、自業自得なのだが。
空を見あげても金は降ってこない。カモメが相変わらず悩みもなさそうに飛んでいるだけだ。
バンはよろよろと立ちあがり、おぼつかない足取りでその場をあとにした。
☆
――この都市の名前をバンは知らない。知っているのは海に囲まれた小さな街だということくらいだ。
当てもなく通りを歩いていく。もとは商店街だったであろう寂れた通りだ。行きかう人は少ない。店舗の3割はシャッターが締め切られており、営業している店も客足は少ないようだった。
南区は僻地であるためか特に目を引くものもない。
歩道を行くバンの横を古ぼけたマニュアル車がガタガタと音を鳴らして通り過ぎていく。
それを横目にバンは息を吐きだした。
あーあ。どうしようかな。
あたりに目を配ると、軒を連ねる店舗に小さな酒場があるのを発見した。木製の看板が外にでていることからきっと営業しているに違いない。
だが、いかんせん金がなかった。ツケで飲ませてもらえるだろうか? だとしたら一杯くらいはいいだろう。
この鬱屈した感情を酒で発散させたかった。
バンが酒場に足を向けた、その時だった。
歩道の向かい側をひとりの男性が慌ただしく走ってくる。
「気づいた。俺は気づいた――気づいたんだ!」
男性は逃げるよう駆けながら発狂して叫んでいた。
その様子に数少ない通行人が驚いて彼を見やっている。長い時間を走ってきたのだろうか。その着衣は大きく乱れていた。
なんだ? 自然、バンも男性へ視線をやった。男性はバンの横を通り過ぎながら、なおも呼吸を荒く大声で喚いている。
「みんな、みんないずれ消える! そんなのいやだ。こんなことおかしい――!」
にわかに騒然とする通りを、一発の銃撃音が響き渡った。
わずか一秒の間。
男性の胸が、いつの間にか赤く染まっていた。男性はその場に膝から崩れ、糸の切れた人形のごとく動かなくなった。
一拍置き、ドッと胸から噴出した鮮血が男性の周囲をじわじわと染めていく。
バンは目を見張った。
周囲の人たちも顔を強ばらせていた。誰もが動けず、あたりは一瞬の静寂に包まれる。
まさか、これは。
話には聞いたことがある。見たのは初めてだが――
空から降り始めた『赤い』粉雪が、周囲を煙るよう風に乗って流れていた。
いつの間にか空は曇天となり、地上を迫るように広がっている。
バンがハッと我に返った時には男性の身体はジワリと薄れていくところだった。まるで水が布に染みこんでいくようにだ。
あっという間に全身がぼやけていき、最後には蒸発するように音もなく消えていった。
数秒もせぬうちにアスファルトには大量の血痕だけが残される。
最初からそこには、誰も存在していなかったかのごとく。
通行人たちはぞっとした様子で立ち呆けている。震えている者もいた。それはバンも例外ではなく、今起きた惨劇に言葉がでなかった。
はらはらと降る赤雪が、広がる鮮血に落ちて滲んでいく。
「大丈夫ですか!?」
鋭い声が現場に響いた。その場に女が駆けつけてくる。
金糸のように淡いブロンドのショートヘアが印象的な女だ。涼しげな切れ長の瞳も同じ金色をしており、誰もが一度は振り向くほどの凛とした美貌だった。
その顔が血痕を見て苦々しげにゆがんでいる。
着ているのは薄手のコートにショートパンツというラフな格好である。両太ももに差したホルダーには短剣が収まっており、どこか物々しい姿だ。
バンより2、3歳は年下だろう若い女だが、警察の人間だろうか?
彼女は現場をサッと見回し、立ちどまっていた通行人のひとりに声をかけていた。
「――どこから銃弾が流れてきたか、わかりますか?」
「み、南のほうから発砲音がした、ような……」
臆した様子で言う通行人に会釈を返し、女は「南!」と意気込んで振り向いた。途端、いまだ呆けていたバンと目がバチリと合った。
「邪魔ッ!」
肩に衝撃が走るとバンの視界が反転した。気づけば地面に叩きつけられていた。バンは痛みにうめきを漏らし、とっさに南へと駆けていく女の背を振り返った。
「いってえな! なにすんだよ、この――」
悲しいかな、バンの声はその場で尻すぼみになる。
女はすでに路地裏に姿を消していた。