やばい。これはやばい。
バンは路地を駆けていた。肺はすでに切り裂くような痛みを発していて、身体中が悲鳴をあげている。体力はすでに限界だ。喉がからからに渇き、視界が霞みを帯びてきている。
それでも立ちどまるわけにはいかなかった。立ちどまれば殺されるだろう。手足を振り乱し、紺色のジャケットをはためかせてバンは風を切る。
後ろからは男たちの怒号が響いていた。やかましい足音が路地を叩き、彼を追って疾駆する。
このままじゃ追いつかれちまう――バンは細い路地に身体を滑りこませた。男たちが追ってくるのを確認すると振り返る。
「おらあっ!」
建物の壁に沿って置かれた箱、樽や板。錆びてゆがんだ自転車までを次々と男たちへ向けて投げ捨て始める。
行く手を遮られた彼らは舌打ちを漏らし、とっさに立ちどまった。
その様子を一瞥し、バンは身を翻し路地を抜けていく。通りにでると車道を素早く突っ切った。ワンボックスカーが急停車して勢いよくクラクションを鳴らす。気にしている暇はない。
また路地に入りこむと縫うように進み、バンは南へ南へと逃げる。
何時間、逃走していたのか定かではない。
気がつけば南の海岸沿いにまできていた。
石造りの古びた防波堤の向こうには、静かに海が広がっている。
さざ波ひとつない茫洋とした景色は、疲労で倒れそうなバンの心情など無視して穏やかに凪いでいた。
まわりは見晴らしがよく、木造小屋がひとつぽつねんと建っているだけだ。朽ちかけた屋根が白昼の陽光に反射し、鈍色に輝いている。
ここまでくれば、もう――
「見つけたぞ、盗人」
それは安堵しかけたバンにとって死の宣告だった。後ろから聞こえた声にギョッとして振り返る。背中に冷や汗が伝うのを感じた。
案の定、バンの眼前には1人の男が立っていた。
齢は20代後半ほどに見える。
さらりとした襟足までの金髪を、緩く吹く風がなびかせていた。均整のとれた体躯に、黒のスーツをきっちりと着こんだ姿は一見して端正な風貌に見える。
だが、長い前髪から覗く青い瞳は、鷹のような鋭さでバンを睨みつけていた。
「げげ……キ、キオウ……」
バンは反射的に身構えた。逃げようにもまわりには小屋以外なにもない。もちろん、身を隠すところもない。
バンは一歩、防波堤を背にして引きさがる。
こりゃまずい。
キオウのそばには3人の男が控えていた。着崩したスーツから柄物のシャツがだらしなくはみだしている。いかにも柄の悪い見た目だ。
煙草を咥えながら、3人はじりじりとバンへ殺気を放っていた。
「いい加減、観念しろ」
キオウが腕を組みながら前にでた。バンは慌てて首を振り、両手を前方に突きだして「待った」の声をあげる。
「こっ、今月中には返す! 返すからさあ!」
キオウの眉がわずか動いた。
「貴様、先月もまったく同じ言葉を吐いていたぞ」
「え? そうでしたっけ?」
「……もう信用ならん。やれ!」
彼が言い放つと同時、3人の男がいっせいにバンへ迫った。抵抗する間もなく彼の両腕を2人が左右から拘束してくる。
きつい煙草の臭いが鼻を刺激した。残りの男がバンの頭を思いきり鷲づかみにし、その頬をぶん殴った。
「ぐふっ……!」
返す手でもう一発殴られ、バンの唇から鮮血が飛ぶ。次いでみぞおちに拳がめりこみ、重い鈍痛に彼は力を失ってよろめいた。
左右を捕縛していた男たちがバンを勢いよく投げ捨てる。成す術もなく地面に倒れこんだバンは、そのまま男たちに激しく足蹴にされた。
痛みに意識が掠れていく。それでもバンはよろよろと上体を持ちあげようと身体に力をこめた。額から流れた汗か血が、目に入って視界がぼやける。
苦しまぎれに笑ってみせようとするが、顔に切ったような痛みが走って表情をしかめた。
口に血が入り、錆の味がする。
まわりの男たちは下卑た笑いとともに唾を飛ばす。奥ではキオウが腕を組んでその様子を眺めていたが、ゆっくりとバンに近づくと屈みこんだ。ボサボサになった彼の紺髪を乱雑につかむ。
バンはうめいた。顔をあげる状態になり、キオウの目がかち合った。相変わらずの鋭い瞳だ。
せっかく端正な顔だというのに、そんな目をしていては女が悲鳴をあげて逃げてしまうだろう。まあ、優しい借金取りなど聞いたこともないのだが。
バンは心の片隅でのんきに考えた。
そんな内心が顔にでていたのか、キオウが不快そうに唇をゆがめる。
「なにを笑っている」
「え、えーと……」
下手なことを言うとまた殴られるに違いない。バンは焦って逡巡する。絶望にも似た気持ちに思わず唇から苦笑が漏れた。
「はは。い、いや。そりゃ、悪いとは思ってるさ。でもさ今、ないものはないっつーか」
「なければ作れ」
「あ、あはは、は……これは名言がでましたね……」
どんな言葉も意味を成さないだろう。もうへらへらと笑うしかなかった。それがキオウの苛立ちに輪をかけて火をつけたのか、彼は乱暴にバンの頭を払うと、すっくと立ちあがる。
反動で仰向けに転がったバンの腹を勢いよく踏みつけた。
激痛にバンは苦悶の表情を浮かべる。口から血が溢れ、何度目かもわからないうめき声をあげた。掠れる視界にキオウの鬼のごとく形相が映る。
「まだことの次第がわかっていないようだな。……いいか。次に間に合わなかったら殺す。覚悟しておけ」
彼は懐から一枚の紙を取りだすとバンに向けて放った。
昼の陽光に照らされて舞う紙面が、おぼろになっていくのをバンは感じるのだった。