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第11話 トロイの魔馬

 深夜。街の人々が寝静まった頃。


 誰もいない大通りを歩く姿があった。ガックリと肩を落とし、項垂れ足を引きずりながら歩くその人影は、このトロイの王にしてヘクトールの父であるプリモアス王である。


 前日の夜中近くに、王は従者も伴わず、人目を忍んでたった一人で城を抜け出した。目指すはギリシャ軍の宿営地。かの人は、最愛の王子を殺した憎き敵であるアキレウスに会うために、ギリシャ軍の宿営地を目指したのだ。


 息子の仇を討つためではない。高齢の王にはそんな力は残っていない。王はアキレウスに連れ去られたヘクトールの亡骸を返してもらうために、無謀で危険な遠出を決意したのだ。


 しかしその望みは叶わなかった。無事にアキレウスに会うことはできたのだが、死んだはずのヘクトールが生き返ったとか連れ去られたなどと、わけのわからないことを言われて、混乱した頭でアキレウスの幕屋を追い出されるように後にした。


 混乱といえば、王に劣らず、不可解なことにアキレウスも大いに混乱していたようであった。


 嘆息しながら、プリモアスはそこにある巨大な物体を見上げた。その日の朝、ギリシャ軍の消えた浜辺に残されていた巨大な木馬だ。湾を埋め尽くしていたはずの敵の軍船は、不思議なことに跡形もなく消え失せていた。


 トロイの人々はこれを吉兆と見た。曰く、この木馬は神からの贈り物であり、ギリシャ軍は神により撃退されたのだと勝手に思い込んだのである。そして木馬を城壁内に運び込み、昼夜にわたり勝利の祝宴に酔いしれた。


 城壁の影には酔い潰れた兵士がゴロゴロと転がり、だらしないいびきををかいている。背を向けて立ち去ろうとする王の耳に、そんな酔っ払いたちの意味不明の寝言が聞こえてきた。


 勝利を得たとしても、ヘクトールは帰ってこない。王座を譲るはずの王子はもうおらず、トロイの未来は終わった。歓喜に酔い痴れる臣民を眺めながら、プリモアスの心は絶望と哀しみに塗りつぶされていた。


 王も去り、城下に静寂が降りてきた。そして真夜中もとうに過ぎた頃、木馬に異変が起きた。


 胴体の一部が少しずつ音も立てずに外側にずれ始めたのだ。誰にも気づかれることなく異変は進行し、やがてそこに、人が通り抜けられるほどの大きさの穴がポッカリ空いた。


 やがてその穴から黒い影が……。


 影は木馬の胴体を器用に伝いながら、一人また一人とトロイの街に降り立った。


 一軍団となった影たちは静かに城門に忍び寄り、寝っ転がっていた門番の兵士を抜き放った剣で刺した。兵士らは何もわからないうちに死んだ。


 次に影は、トロイの門を固く閉じていた頑丈な閂を外した。城門を開け放つと、外で待ち構えていた軍勢が怒濤のように雪崩れ込んできた。


 ギリシャ軍の奇襲である。トロイの人々が寝静まるのを待ち、木馬の中に潜んだギリシャの手勢がトロイ自慢の城門を内側から解放したのだ。消えたと見せかけた軍船は沖合いで待機していたのである。


 頼みの綱の城壁が破られたトロイの命運は、ここに尽きた。


 ギリシャ軍は周りに火を放ち、家々の扉を蹴破り、その中で就寝中の人々を情け容赦なく殺した。不意をうたれたトロイの民は抵抗する暇もなかった。


 その、死の軍団の先頭にアキレウスの姿があった。


「王宮はどこだ。王宮を探せ」


 配下の兵士に命じたその時、アキレウスは背後に異様な気配を感じて振り向いた。


「!」


 間一髪、咄嗟にその場から転がったすぐ横に、空から巨大な物が落ちてきた。そこにいたギリシャ兵を纏めて踏み潰す。


 凄まじい轟音、そして、グシャああっという粘りつくような嫌な音と共に、砕けた鎧や肉片、骨のかけらの混じった血飛沫が、まるで土砂降りの雨のように勢いよく撒き散らされた。


 衝撃で吹っ飛ばされたアキレウスは、それをまともに浴びてしまい、一瞬、何も見えなくなった。


「おごぁああァァァ」


 それまで聞いたことのない悍しい大音響の咆哮が空気を震わせる。


 目が見えないながらも、踏み潰されまいと思い切り横に転がったアキレウスの背中で、再び轟音と血の雨が降る。


「なんだ」

「うおおおっ」

「助けて」

「ああ、神よ」


 複数の怯えた叫び声は仲間のものだろう。それがいきなり途切れるのは、急に出現した謎の敵に踏み潰されたのだ。


 体勢を立て直し、やっと視力を取り戻したアキレウスが見たものは、荒れ狂う巨大な四つ足の何かだった。


 後ろ足で高く立ち上がり、咆哮と共に前足をズズンと振り下ろす。ギリシャ兵はおろか、逃げ惑うトロイの人々も情け容赦なく踏み潰している。


 と、今度は天を見上げた長い首を、追い詰められて一塊りになった集団の中に一気に振り下ろした。大きく開けた口に咥えられた人間の胴体が、次の瞬間、ブチッと喰いちぎられる。


 悍しい雄叫びを上げながら荒れ狂う巨大な馬。それは、アキレウスたちをその中に隠し、トロイ攻略に一役買った、命のない作り物のはずの、あの木馬だった。


 いや。身体の輪郭は確かに馬の形をしていたが、ヌラヌラと虹色に光る鱗に覆われたそれは、はたして馬と呼べるのか。


 殺戮した人の血で赤く染まったそれが、再び咆哮する。


 ……なんだこれは。どうしてこいつが動くんだ。解体した船の木材で俺たちが作った、がらんどうのこいつがどうして勝手に動くんだよ。


 アキレウスの胸に疑問が充満する。しかしそこに恐怖はない。


 仲間はほとんどこいつにやられたらしい。この化け物めが。


 狂ったように血走った木馬の目がアキレウスを捉えた。思わぬ速さで巨大な頭が突っ込んで来たが、後ろにステップして避けた。目の前で噛み合わされた歯がガチンと鳴る。


 その隙に横に回ったアキレウスは、異形の馬の首に剣を突き刺した。しかし硬い岩を突いたような衝撃と共に、剣が折れてしまった。


「無駄なことだ」


 妖艶な声が、呆気にとられたように折れた剣をかざしているアキレウスの背に投げかけられた。


 まるで少女のようであり、天使のようでありながら、どこか忌まわしい、女の声。


 歴戦の勇士であるはずのアキレウスですら背筋に寒気を覚えるその声の主は……。


「おまえはあの時の。どうしてここにいる」

「あの時とはどの刻のことか」

「なんだと?」


 シミひとつない純白のドレス。その大きく開けられた胸元から白い肌が淫らに溢れる。深淵の暗黒を湛えた大きな瞳が、血塗れのアキレウスをひたと見据えている。


 ……あの時、従者らしき黒い騎士は、この女を姫と呼んだ。だが、姫とはいったいどこの国の姫なのか。


「どこでもない。しかしどこの国であろうと我のもの」

「な、なに」

「我はどこの国にもいない。我はどこにでもいる」

「なにを……言っているんだ」

「おまえの疑問に答えてやったぞ」


 アキレウスは自分の疑問を口に出していない。信じがたいことだが、女は、頭の中にある考えを読み取れるようだ。


 血の海の中に、ひとり静かに立つ純白のドレスの女。青い月の光が、真っ赤に血塗られた風景の中で、そこだけ、忌まわしくも無垢なる姫を煌々と照らしている。


 異形の馬が長い首を巡らせた。急に目の前のアキレウスに興味を失ったように、後ろを向く。そして馬が退いたその場所に、漆黒の剣をぶら下げたヘクトールの姿があった。


 剣と同じく漆黒の鎧を纏い、首から上はむき出しのまま、しかしその虚な目はアキレウスを見ていない。


 ゆらっと上体が動いたように感じた瞬間、その姿が消え、少し離れた場所で血煙が上がった。殺戮の馬と自らが放った炎から逃げ惑うギリシャ兵たちが、暗黒の剣で細切れにされたのだ。


「待て、ヘクトール……っ!」


 死から甦りしトロイの英雄の背を追おうとした目の前に、天から巨大な蹄が落ちてきた。間一髪、アキレウスは踏み潰される寸前で身を翻した。


 そこへ一筋の光が。燃える街の色の尾を引いてアキレウスの足に……。


「がっ」


 激痛が走る。踵を貫いた矢が歴戦の勇士の自由を奪う。それは、兄の仇を討ち取らんと、彼方からパリスが放った弓矢だった。


 地面に縫い止められ動けないアキレウスの胸に、トンと二の矢が突き立った。そして続けざまに何本もの矢が、棒立ちになったその身体を貫いた。


 かつてはがらんどうの木馬であったはずの化け物が咆哮する。その巨大な赤い目がアキレウスを捉えた。瀕死の英雄に狙いを定め、後脚で高く立ち上がる。殺戮したギリシャ兵の血が赤い雨のように地上へ滴る。


 仲間たちと同じく、虫けらのごとく踏み潰されることを覚悟したアキレウスは、高みから己めがけて落ちてくる馬の足を見上げた。避けようにも、もはや身体が動かない。


 いきなり黒い風がゴゥと吹いた。風はアキレウスを一瞬で吹き飛ばし、城壁の硬い表面に叩きつけた。黒い風は人の形をしていた。


 その手には闇より黒い剣。漆黒の刃がアキレウスの胸を貫き、分厚い城壁に深々とめり込んだ。


 黒い騎士の目にも止まらぬ斬撃と同時に、それまで暴れ狂っていた馬が、まるで内部から爆発したかのようにバラバラになった。


「かつての盟友への情けか」


 彼らの背後に現れた姫の声には揶揄するような調子がある。


「せっかく我が変化へんげさせた馬のおもちゃを破壊し、さらに己が剣でとどめを刺したのは、かつての盟友への手向けなのか」


 黒い騎士は感情の籠らない声で答える。


「我が姫よ。盟友とは?」

「うん?」

「我が支えるはただ一人、我が姫のみ。我に盟友などおりませぬ」

「そう申すならそれでもよい。しかしもう少し遊びたかったのだがな……」


 姫は漆黒の騎士の名を呼ぼうとしたが何も思い出せない。束の間浮かんだ名は、伸ばした手をすり抜け、記憶の深海に沈んでしまった。


「ヘク……ル」


 アキレウスはまだかろうじて息があった。今や全身が黒い鎧に覆われたトロイの英雄に向かってその名をつぶやいた。


「我が姫よ。もうここに用はありませぬ。そろそろ戻りましょう」


 骸と化したギリシャの英雄から剣を引き抜き、黒い騎士が深い処から響いてくるような声で姫に呼びかけた。


 姫が空中に文字を書いた。するとそこに周囲の景色を切り取ったような大きな四角い穴が現れた。穴の向こうは何処かの森のようだ。


「我が最果ての城へ帰らん。我が漆黒の僕よ、我と共に参れ」

「我が姫の仰せのままに」


 姫と黒騎士は穴の向こうへ消えた。と同時に空中に現れた不思議な穴はかき消すように消えてしまった。


 あとに残されたのは焼け焦げた廃墟と殺戮の痕跡。死体が累々と広がるばかりで、栄華を誇った城は一夜にして滅んだ。


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