目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第10話 姫

 その夜。アキレウスが寝起きしている幕屋にて。


 もの思いに耽るアキレウスの傍らに、彼らは唐突に出現した。異様な気配に剣を抜き放ちつつ飛び退るアキレウスが見たものは、無垢なる純白のドレスを纏いし女と漆黒の騎士だった。


 残酷な美姫とその唯一の従者である“漆黒の真紅”。


「何だ貴様らは! 何処から現れた……」

「愛しい人よ。お迎えに参りました」


 驚愕している英雄に何の関心も示さず、姫はそこに転がっている埃まみれの惨たらしいヘクトールの死体の横に跪いた。


「さあ私と共に城に帰りましょう」

「城だと? いったい何をほざいているんだ。それにその男は見てのとおりとっくに死んでいる」


 姫の前に無言で立っている漆黒の騎士を睨みながら、アキレウスが吐き捨てるように言った。


「それがどうした」

「なに」

「死んでいるから? だから何だ」


 鈴を転がすような、女の澄んだ声に含まれた悍ましい気配に、アキレウスは今まで感じた事などない感情を覚え背筋を凍らせる。


「おまえは……おまえたちは何なのだ」


 アキレウスに興味を無くしたように、姫はその視線を再びヘクトールに戻し、その亡骸の上にスッと白い腕を差し出した。そして暗黒の騎士に命じる。


「おまえの剣を」

「……」


 抜く手も見せず、忽然と漆黒の剣が現れた。無言の騎士の鎧と同様、光を全く反射しない黒々と闇に沈んだ長剣。目の前に差し出されたその刃に、姫は無造作にか細い腕を押し付ける。その刹那、真っ赤な血潮が迸り、その禍々しい赤い液体は、しかし一滴も地にこぼれ落ちることなく漆黒の剣に吸い込まれ、姫の腕が触れているところから暗黒の剣を血の赤に染めていく。


 魅入られたように、アキレウスはその光景を見つめる。


 闇の色だった剣が切っ先までその色を"赤"に変えた。ジッと見つめると脈動しているような錯覚すら覚える生々しく淫らな赤い剣。


 かすかに姫が頷くと、その赤い刃がヘクトールの心臓の辺りにグサッと突き刺された。姫の濡れたように光る赤い唇から、祈りに似た詠唱が流れ出す。



愛しき人よ

昏き魂よ

今こそ我に帰れ

その逞しき腕に我の熱いからだを抱け


我の唇を奪い

甘美なる口づけのうちに

永遠の隷従を誓え


愛しき人よ

我の声を聞け

その心臓に再び暗黒の魂を宿せ

そして我と共に最果ての城へ帰らん


たとえ百万の敵が行く手を塞ごうとも

すべてを血煙に変え

我と共に永遠の快楽の中へ帰らん


さあ……立ち上がれ



 まるで潮が引くように、ヘクトールの骸に突き刺された剣の禍々しい赤色が、死んだ英雄の体内に吸い込まれていく。長大な剣は徐々に元の漆黒を取り戻していく。


「何をしている…おまえらはいったい……」


 呆然とアキレウスが呟いたまさにその時、死体がビクンと動いた。


「がっ、あああァァァ」


 突き立っていた漆黒の剣が引き抜かれると、悍ましい呻き声を上げながらトロイの英雄が跳ね起きた。驚愕で硬直しているアキレウスを睨むその目は血の赤に染まっていた。


「悪しき魔術か!」


 一瞬で我に返ったアキレウスが剣を振りかざして飛びかかる。が、その必殺の一撃は空を切った。態勢を崩した格好のまま、動けなくなった。


「くっ。貴様……俺に何をした」

「本来なら粉々の肉片になっているところだが、我が愛する人がおまえを生かしておきたいそうだ」

「何だと」

「アンドロマケよ……」


 戸惑うアキレウスに目もくれず、姫の嫋やかな身体をその腕にかき抱き、深い処から響いてくるような声で、死から甦りしヘクトールが呼びかける。


「愛しいあなた。さあ、わたくしと共に参りましょう」

「うむ。我が子アステュアナクスの姿が見えぬが」

「存じませぬ」

「おいヘクトール! その怪しい女はおまえの妻じゃないぞ。よく見ろ」

「黙れアキレウス」


 いつの間にか漆黒の長剣を手にしたヘクトールが、その切っ先を動けないアキレウスの喉元に突きつけた。


「ん? その邪悪な剣をどうしておまえが持っている? あの黒い鎧の騎士はどこだ」


 隠れる場所もない幕屋の中を、目だけ動かして探してみても、あの漆黒の騎士はどこにもいなかった。


 そんな馬鹿な。今の今までここに、あの女の傍にいたはず。


「愛するあなた。こんな場所にはもう用はございませぬ。早く参りましょう」

「トロイへ帰るのか?」

「我とあなたの永遠の城へ」


 混乱しているアキレウスに構わず、姫とヘクトールは熱い視線を交わす。一瞬だけ目を離した刹那、二人の姿は跡形もなく消えていた。同時にアキレウスを拘束していた見えない呪縛が解け、幕屋の外に転がり出る。抜き身の剣を片手に周囲を見回したが、彼らはいなかった。


 いったいどうなっているんだ。死んだはずのヘクトールが生き返るなんて。それに妖しい呪術を使うあの女は何者なのか。


 アキレウスの無言の疑問に答える者は誰もいなかった。



 その翌朝のことである。ギリシャ軍が駐留する海辺を偵察した斥候が持ち帰った知らせは、ヘクトールを失い悲嘆に暮れていたトロイアの人々に驚きと戸惑いをもたらした。水平線まで埋め尽くす勢いだった夥しい数のギリシャの船が一隻も見当たらないというのだ。


 船の代わりにそこにあった物は……巨大な馬だった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?