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第9話 ヘクトール

ヘクトール ギリシャ・トロイア戦争の英雄。

ギリシャ軍のアキレウスとの一騎打ちに敗れて死ぬ。



 ぎっしりと押し寄せた夥しい数のギリシャの軍船により、海岸より湾の遥か遠くまで海が見えないほどだった。


 だが、数万の敵が押し寄せようと、我らにはトロイの城壁がある。地の利は我らのもの。


 湾を見遥かする崖の上で、ヘクトールは、その悍ましい風景を眺めながら、心中の不安を片隅に押しやり、そう自分に言い聞かせた。


 トロイの王子である自分が怖気を振るっては、全軍の士気に関わる。だが、と傍らに控えた弟のパリスを見やり、密かに嘆息した。


 よりによってスパルタとの休戦協定を結んだ矢先に、恋に狂ったパリスがスパルタ王の弟であるメネラーオスの妻へレーネを攫うという愚行をしでかさなければ、こんな事態にはならなかったのだ。激昂したギリシャが大軍を以ってへレーネを取り返しに来るのも無理はない。


「兄上。申し訳ございません」

「パリスよ。起きてしまったものを今更どうこう言っても仕方あるまい。厳しい戦いになるだろうが、我らにはトロイの城壁がある。さあ、城に戻るとしよう」


 数で劣るトロイアの群勢は、ヘクトールの巧みな指揮により、敵の隙を突いて遊撃を繰り返し、ギリシャ軍を撹乱した。


 奪われた妻を取り返そうと、パリスに一騎打ちを申し入れたメネラーオスにより、技量に劣るパリスが殺されかけたが、弟を思い遣るヘクトールが横から飛び出しメネラーオスを打ち取った。


 しかしメネラーオスの兄であるスパルタの王、アガメムノーンは、パリスとヘクトールの兄弟を卑怯者と罵り、それ以降、戦いは熾烈を極める。そしてアガメムノーンを嫌っていたはずのアキレウスが敵軍に加わったことで、トロイア軍は次第に押され始め、戦況はギリシャ軍優勢へと傾いていった。


「アンドロマケ……愛する妻よ」

「どうなさったのです」


 生まれて間もない我が子を抱いた妻を、ヘクトールは苦悩の表情で見る。


「もしも、このトロイの街に敵軍が雪崩れ込んできたら、私のことは構わず秘密の地下道を伝って逃げるのだ」

「あなたと一緒にいます」

「いかに強固であろうと、ひとたび城壁が打ち破られたらトロイは滅ぶだろう。だからその時は、この子を……我が子アステュアナクスを抱いて逃げてくれ」

「ああ、ヘクトール……悪い予感がします」


 ヘクトールが妻の手を取り、優しく引き寄せようとしたまさにその時、城壁の彼方より自分を呼ぶ声が聞こえてきた。


「出てこいっ、ヘクトール!! 卑怯者め」

「あの声は……アキレウスか」

「一騎打ちを申し入れに来た。おまえに本当の勇気があるのなら、こそこそ隠れてないで俺と闘え!」


 前日の戦いでトロイア軍の総大将として出陣したヘクトールは、アキレウスの鎧を着た兵士に闘いを挑まれ、激闘の末、その胸を剣で貫いて倒した。


 しかし死んだ相手の兜を取り去ると、アキレウスではなく、年若い青年の顔が現れた。


 ……しまった…この者は。


 ヘクトールがアキレウスとばかり思っていたその兵士は、アキレウスの親友のパトロクロスが変装していたのである。


 アキレウスは手勢を率いて戦には加わったが、ギリシャ軍の総大将であるアガメムノーンと確執があり、たびたびその命令を無視した。


 だがその行動は友軍からの孤立を招いた。親友を憂いたパトロクロスは、へそを曲げたアキレウスの元からこっそり鎧を借用し、アキレウスの振りをして味方をも欺き、手勢と共に出陣したのだった。


 親友の物言わぬ骸を前にしたアキレウスは悲嘆に暮れ、そして激高した。パトロクロスを殺したのがヘクトールと分かると、周囲の制止も聞かずに一人戦車に乗り、トロイの城塞を目指したのである。


「ヘクトール!出てこい!」


 トロイの正門の前で戦車を走らせ挑発するアキレウス。高い城壁の上から不安げな面持ちでその様子を見下ろすプリアモス王とパリス、そしてヘレーネ。


「行ってはなりませぬ」

「しかしあれを放置してはヘクトールの名が廃る。アンドロマケよ、私が言ったことを忘れるな。もしもの時は……逃げるのだ」

「まさか……死ぬおつもりなのですか?」


 泣き崩れる妻の肩に、ヘクトールそっと手を置いた。


「我が息子よ。輝かしき王子よ。城塞から出る必要はない。このトロイの城壁は誰にも越えられぬゆえ」

「父上。そうは参りませぬ。アキレウスの嘲りを放っておけば我が軍の士気に関わります」

「アキレウスは歴戦の戦士であり強敵だ。私はおまえに死んで欲しくない。それにこんな一騎打ちでもしもおまえが負けたら、それこそ我が軍の士気が……」

「しかし父上。アキレウスの盟友をこの手で殺したのは事実。たった一人で敵地に乗り込み決闘を申し込んで来たアキレウスの勇気は讃えるべきであり、その申し出を受けぬのはそれこそ卑怯者。私は行かねばなりませぬ」

「ああ、愛する息子よ……」


 ヘクトールは、父であるプリモアス、弟のパリスと暫しの間、抱擁を交わし、青ざめた顔に決意を浮かべ、城門に向かった。


「来たか、卑怯者」

「アキレウスよ。すまなかった」


 トロイの巨大な城塞の前で対峙するヘクトールとアキレウス。城壁の上から固唾を飲んで見守る人々。その中にはヘクトールの愛する妻、アンドロマケの蒼白な顔も見える。腕に抱いた幼子は二人の愛息、アステュアナクスであろう。


「あの者がパトロクロスだとは知らなかったのだ。鎧は紛れもなく其方の、アキレウスの物であり、偽物であると疑う理由が無かった」

「うるさい。つべこべ言わずに闘え。おまえの血を親友に捧げるために、俺はここに来たのだ」


 血走った憎しみの眼でヘクトールを睨んだままアキレウスは剣を抜き放った。同時にヘクトールも剣を抜いて身構える。


 一瞬の間……。


 アキレウスが横に動くと見せて、いきなり大きく踏み出しヘクトールに斬りかかった。意表を突かれたヘクトールは、かろうじて左手の盾でその斬撃を凌ぐ。ガギン、と、金属の打つかる耳障りな音が響いた。


 英雄同士の闘いを見守る人々の間からため息にも似た、おお、というどよめきが上がる。


 タッ、タッ、と軽やかに右に回り込んだアキレウスが素早い動きで剣を横に払った。咄嗟に身を伏せ前に転がって避けるヘクトール。


 だがアキレウスは相手が立ち上げる暇を与えず、一歩踏み込んでその腰を蹴った。


 よろけたヘクトールの腋がガラ空きになったが、アキレウスは余裕の表情で正面に回り込み、誘うように左へ右へと素早いステップを繰り返す。


 体勢を立て直したヘクトールが斬り掛かる。それをアキレウスが盾で受け止め、ガインッ、と鈍い音がした。アキレウスは盾を構えたまま強引に押し込んだ。


 盾と盾がぶつかり擦り合わされ、ギインッ、と歯の浮くような音がこだまする。


 斬りかかり盾で受け止め受け流し、勇敢な男たちの闘いは続くが、はあ、はあ、と肩で息をつくヘクトールに対し、呼吸一つ乱れぬアキレウスの鋭い動きを比べれば、その力量の差は明らかだった。


 それなのにアキレウスが一気に攻め込まないのは、肉食獣が獲物をもてあそぶようにヘクトールをいたぶっているからである。


 あきらかに動きが鈍ってきたヘクトールの周りを、円を描いてアキレウスが動き、走り、そして踏み込んで軽やかに攻撃し、すかさず下がってまた隙を窺う。


 何度目かの攻撃の際に、大きく踏み込んだアキレウスの攻撃を盾で受け流しつつ横に回り込んだヘクトールの目の前に、バランスを崩した敵の首筋が晒された。


 ここぞとばかりに渾身の力を込め、ヘクトールは振りかぶった剣を振り降ろす。


 ……取った。


 ヘクトールが勝利を確信した時、後ろ向きのまま盾で攻撃を凌いだアキレウスがヘクトールの眼前でクルッと回転した。


「がっ……」


 ヘクトールの肩の少し下あたりにアキレウスの剣が刺さっていた。


 バランスを崩したと見えたのは敵の攻撃を誘うための罠だったのだ。


「は……くは……」


 突き刺された剣で肺が傷づいたらい。ヘクトールは吸えない息を懸命に吸い込もうとするように大きく口を開け、身体を震わせながら、ガクッと大地に膝をついた。その手から滑り落ちた剣が、ガランと虚しい音を立てる。


 城壁の上で闘いを見つめていたトロイの人々に悲痛などよめきが広がる。


「王子が敗れた……」

「私たちの希望が……」

「もうおしまいだ……」

「ああっ!!」


 ひときわ大きな叫びはアンドロマケのものだ。恐ろしくて目を背けたいのに、釘付けになったように、膝立ちの恰好で痙攣している夫を見つめる。


 タッ、タッ、タッ……。


 瀕死の敵の周囲を一周したアキレウスがヘクトールの正面に立った。そして落ち着いて狙いを定め、鋭く剣を突き出してヘクトールの心臓を貫いた。


「ぐふっ」


 背中まで突き抜けた剣をアキレウスが引き抜くと、ヘクトールの身体が、どうと地面に倒れた。草一本生えていない褐色の大地に、死んだ英雄の赤い血が広がり、染み込んでいく。


 その瞬間、アンドロマケは気を失い、目の間で全軍の大将であり愛する息子である王子を殺されたプリモアスは、涙を流して慟哭した。


 そんなトロイの人々の悲嘆には目もくれず、アキレウスは戦車から縄を取り出した。息絶えたヘクトールの足にその縄をぐるぐると巻きつけはじめる。何をしているのかと固唾を飲んで見守る人々。


 やがてスパルタの英雄は、ゆったりした動作で戦車に乗ると手綱を引いた。トロイの英雄の亡骸をずずっと引きずり、巨大な城壁の前をこれ見よがしに往復して、茶色の土煙を上げながら戦車は離れて行き、やがてその姿が小さくなり見えなくなった。


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