女は愛に飢えていた。ついに愛する男とめぐり逢い、この城で幾日も何年も何世紀も、止めどなく湧き上がる淫らな欲望に溺れながら愛を交わしていたはずなのに、いつの間にか男は消え、女はひとりになっていた。
いや。ひとりではない。女に影のように付き随う漆黒の騎士。いついかなる時も女と共にいる"漆黒の真紅"。
女は振り向き、跪いて首を垂れている騎士に問うた。
「あの人は何処に行った」
騎士は深淵から響くような声で答える。
「我が姫よ。あの人とは?」
答えようとした女は愛しい男の名を忘れてしまったことに気づいた。名前どころか顔、姿形すら記憶から失われている。覚えているのは女に愛を囁いた声の響きと、愛し合った時の肌の熱い感触だけ。
「私を愛し私が愛したあの人は何処にいる」
「存じませぬ」
「……そうか」
跪く騎士を眺めながら、女にふと疑問が湧いた。この声。この者の声は以前からこのような声であったか?
「おまえは誰だ」
「姫の騎士でございます」
一瞬の躊躇なく騎士が答える。
「そうか」
姫はさらに質問を重ねようとしたが、今何を言おうとしたのか忘れてしまった。つかの間生じた騎士への疑念すら失われている。
「あの人を探しに行かねばならぬ」
「我が姫の仰せのままに」
音もなく騎士が立ち上がり、いつの間にか出現した巨大な鏡に向き直った。騎士の身の丈の倍はあるそれは、支えもないのに石の床の上に立って、城の伽藍とした大広間と、そこに佇む純白のドレスを着た妖艶な姫の姿を映し出している。
騎士が目にも止まらぬ速さで剣を抜き放ち、大鏡に突き刺した。漆黒の剣は何の抵抗もなく柄まで飲み込まれ、粉々に割れるはずの鏡は何事もなかったかのように立っている。
いや。鏡の表面に変化が生じていた。ゆらゆらと風に波立つ水面のように揺らめき、そこにはもはや姫の姿も大広間の様子もなく、何処とも知れぬ異国の風景を映し出していた。
「この場所に私の愛する人がいると?」鏡に映る異国の城を眺めながら、姫は騎士に問う。
「この鏡は姫の棲まう最果ての城を夢見る者の元へと導きますゆえに」
「うむ。では参ろう……?」
姫はある名前を呼びそうになった。一瞬だけ記憶の表面に浮かび上がった名は徐々にまた暗黒の忘却へ沈んでいく。
「鏡を抜けます。我が姫よ。何処であってもどの刻であっても、わたくしがお守りいたします」
「うむ。頼んだぞ」
姫が波立つ鏡の表面に触れると少しの抵抗もなく向こうに抜けた。白く美しい顔に淫らな微笑みを浮かべながら姫は鏡を突き抜け、先程騎士に呼びかけそうになった名を胸に呼び起こした。
アーサーとは誰だ?
そのような者は知らぬ。
我が漆黒の僕に名など無いのだから。