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第5話 姫

グエネヴィア?

モーガン・ル・フェイ?

…知らぬ

名前などどうでもよい



 漆黒の騎士が身じろぎするたびにモルドレッド軍の兵士が鎧ごと切り裂かれ、地に崩れ落ちる。剣を振るう手も見えないのに、黒い騎士の周囲に兵士達のバラバラになった屍が増えていく。


 突如として戦場に現れたひとりの謎の騎士によって、モルドレッド軍の半数近くがあっという間に細切れの肉片と化した。赤い雨のように飛び散る血飛沫を浴びても謎の騎士の鎧は黒いまま。漆黒の鎧は光とともに人間の血液をも吸収しているようだった。


 アーサー軍はこの機会を逃さなかった。図らずも謎の援軍と挟み撃ちの有利な体制になった彼らは、敵の混乱に乗じて果敢に攻めて斬り込む。


「何だ……いったい何が起きているのだ……」


 モルドレッドは混乱していた。少し前までは勝利を確信していたのに謎の敵の出現によって形勢が逆転してしまった。配下の兵士達は前後から攻められて為すすべもなく倒れていく。意を決して謎の黒騎士に斬りかかった兵士たちは一瞬にして人の形を留めない血と肉の塊になった。


 そして程なく、モルドレッドはただひとりアーサーの配下に囲まれた。全滅。あれほどいた配下の男たちは、大将だけを残して全員が死に絶えた。


 目の前に黒い騎士がいる。殺されるとモルドレッドが思った時、アーサーが待てと叫んだ。


「待ってくれ。誰か知らぬがその者を殺すのは私の役目。助けて貰った礼も言わぬうちに失礼かと思うが手出しは無用だ。頼む」


 ギリっと歯ぎしりしたモルドレッドと息を切らしたアーサーの目が、黒い騎士の後ろに佇む白いドレスの女を捉えた。その瞬間、二人の口から驚愕の言葉が飛び出した。


「グエネヴィア!  まさか……」

「モルガン!  何故ここに」


 戦場を静寂が覆った。その沈黙を破ったのは女の声……清らかで可愛らしく澄んでいるのにも関わらず、何処か妖艶で背筋が泡立つような戦慄を覚える声。誰にも似ていないがしかし何処かで聞いたことがあるような声…例えばそれは夢の中の女……例えば遠い昔に故郷に置いてきたかつて愛し合った女の声。


「グエネヴィア……モルガン……それが私の名前なの?」

「違うのか?」


 アーサーとモルドレッドの目にはそれぞれの想いが篭った女に見えた。グエネヴィアはアーサーの愛する妻。親友のランスロットに奪われた美しき妃。モルガン・ル・フェイはモルドレッドの母の妹で、叔母に当たる妖艶なモルガンに特別の感情を抱いていた。


「名前など何でもよい。愛する人よ。迎えに参りました」


 女がアーサーへ手を伸ばした。


「私は待つことに疲れました。だからこうしてお迎えに参りました。さあ、私と共に参りましょう」

「グエネヴィア……待っていてくれたと言うのか?  ランスロットはどうした」

「ランスロット?  知りませぬ。私にはあなたしか愛する人はいないのです」

「君と共に行こう。我が愛しのグエネヴィア。しかしモルドレットと決着をつけてからだ」

「もしやこの剣はあなたの物でしょうか」


 アーサーの前に跪いた女が恭しく捧げた剣。それは失われた筈のエクスカリバーだった。


「 まさか!  なぜ君がこの剣を持っている……」

「ここに参ります途中……時のはざまで見つけました。しかし愛する人よお聞きください。もはやその剣は……」


 女の言葉はアーサーの耳に届かなかった。エクスカリバーが戻ってきたことに心が踊り、モルドレッドを殺すことで頭がいっぱいだったのだ。


 そして他の者が見守る中、アーサーとモルドレッドは対峙した。互いの剣ぶつかり合い揉み合って相手の隙を窺う。よろけたアーサーを攻撃しようと大きく剣を振り上げ、ガラ空きになったモルドレッドの腹にエクスカリバーが突き刺さった。勢いで背中まで抜けてモルドレッドの口から血がこぼれる。だが、渾身の力を込めた最後の一撃がアーサーの兜を割り、頭まで届いた。


 二人同時にどうと倒れる。モルドレッドは既に事切れていた。女が泣き叫びながらアーサーに駆け寄る。


「ああ……何と言うこと……だから申し上げたではありませんか…エクスカリバーは既に魔力を失ってあなたを守る力も無くなっていたというのに……」

「……済まない……君の言葉を聞いていなかった……グエネヴィア……愛しい人……愛している……よくぞ私の元へ帰って来てくれたね」


 力なく目を閉じた王の頭から夥しい血が吹き出していた。


「あなた……愛する人よ……大丈夫です。死なせはしない」


 女が目配せをすると、ジッと佇んでいた黒い騎士が瀕死のアーサーを抱え上げようと動いた。咄嗟にアーサーの配下の数人が王を守ろうと反射的に動き、瞬時にバラバラに切り刻まれる。事の成り行きに呆然としていたペディヴィアとルーカンが我に返り叫んだ。


「待て! 我らが王をどうするつもりだ!」

「私の城に連れ帰ります」

「なに……城とは……どこにある」

「この世界の終わる処。最果ての城で傷を癒し、私とずっと一緒に暮らすのです」

「何だって……そんなことは許さない……」

「もうよいのだ……」


 アーサーが掠れた声でつぶやいた。


「グエネヴィアと共に行こう。アヴァロンの島に……」

「王よ。この女はグエネヴィア姫ではありませぬ。そして行先もアヴァロンでは……」


 高々と女が笑った。その禍々しい響きに二人の騎士は思わず後ずさった。


「我はグエネヴィアかも知れぬ。最果ての城はアヴァロンかも知れぬ。そんなことは誰にも分からない。私とて自分が誰なのか分からないのだから」


 女の視線に絡め取られたように二人は動けなくなった。


「我が姫よ。もうここに用はありませぬ。そろそろ戻りましょう」


 アーサーを抱いた黒騎士が深い処から響いてくるような声で女に呼びかけた。


 女が空中に文字を書いた。異国の文字だ。するとそこに、周囲の景色を切り取ったかのような大きな四角い穴が現れた。穴の向こうは何処かの森のようだった。


「愛する人よ。もう私を一人にしないで……ずっと一緒に……この世界の終わる処で刻の果てるまで、ずっと…」


 アーサーの耳元で女がささやいている。為す術もなくペディヴィアとルーカンが見守る中、アーサーを抱いた黒騎士と女はその穴の向こうに消えた。


 アーサー達が消えたあと、空中に現れた不思議な穴もかき消すように消えてしまった。残されたのは、死体が累々と広がる戦場で、言葉も無く呆然と立つ二人の騎士だけだった。


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