ずうっとあとになって、あの場所での体験を思い出したときに、真っ先に思い浮かぶのは、風に乗ってやってきたほのかな匂いだ。それは病院で赤い魔物に襲われた際に感じたものと同じであると、やはりあとになってから気がついた。
匂い、香り、甘い匂い、ほのかな香り。ふとした瞬間に思い出す感覚。柔らかい、暖かい、温かで柔らかいもの、指先でそうっと触れたもの。触覚の記憶はどこにある?それに触れた指先が記憶している。ずうっとあとになってから、人はそれらを思い出す。
麗子さんから聞いた話は途方もなく壮大すぎて、わたしの理解を超えている。それは神や悪魔について真面目に考察した際に、それらがはたして実在するのか、それともしないのかを証明しようとする試みに似ていると思う。
『神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ』
by フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
いわゆる絶対的な善や究極の悪の存在など、今時、子どもですら信じていない。それは現代の漫画やアニメを見ればわかる。正義の味方には裏の顔があり、悪役にはそこに至った然るべき事情があるのだ。
麗子さん…と呼ぶのはやめて、守護者(ガーディアン)と呼ぼう。守護者は世界を破滅から護るために存在するという。しかしわたしと平川さんを抹殺しようとした。世界と個人を天秤にかけた時にはたしてどちらが重いのか。守護者は迷いなく世界を選ぶ。しかしその姿勢は善なのかそれとも悪なのか?
いずれにしても、たとえ世界を護るためであろうとも、わたしは肥やしになんかなりたくはないし、わたしを肥やしにしようとする存在が正義だなんて絶対に認めない。故に、守護者がいくら正義面をしてみせても、世界に散らばっているという彼らが善や正義ではないことが証明された。Q.E.D.
守護者が最後になって己の方針(わたしを肥やしにする計画)を覆した理由はよくわからない。あの時、魔樹が復活したといっても、それは一時的なものに過ぎない。その証拠に、魔に汚染されてしまった不気味なコケだらけの大地は、魔樹が出現しても回復しなかった。Q.E.D.
ちなみに、世界各地の神話を調べてみたところ、最果ての城に棲むかの人および漆黒の僕VS守護者という構図に当てはまるものは見つからなかった。
キーピースとしての"見つからない家"体験談にたどり着く過程で除外したもの、それらの中のも関連ピースが隠されているのではとないかと、ふと思った。
もしかしたら"蠢く指"の先輩も"黒いコート"のロッカーの主も、みんな麗子さんなのでは?なんて疑い出したら切りがない。
それにもしもそれが真実だとしたら、さすがに不気味な罠の存在を認めざるを得ない。わたしをあの場所へ誘き出すための罠である。そしてそれは見事に機能したわけだ(それほどまでにわたしを肥やしにしたいのか?)。
そういえば、守護者からの生レクチャーを記録できたはずのICレコーダーは、まあきっとそうだろうなと予想していたとおり壊れていた。魔坑に落として紛失してしまったサバイバルナイフとともに新たな品を用意する必要がある。
平川さんからは似合わないと酷評されてしまったけれど、わたしとしては奮発して購入したサバイバルナイフを失くしてしまったのはつらかった。あのナイフはフルオーダーなのだ。だから同じものは二度と手に入らない。
『大切なものを失ってしまったら、もう二度と手に入らない』by 蒼井冴夜
♢
きっかけは、ある小さな出来事だった。
ほどほどに混んでいるいつもの通勤電車。高校生だろう、制服姿の三人の女の子が他愛のないおしゃべりに興じている。背負ったリュックには、いくつものキーホルダーや何かのキャラクターらしきマスコットがぶら下がっている。
あんなに付けたら邪魔じゃないのかなと余計な心配をしながら、ぶらぶら揺れているフェルトでできた愛嬌のあるマスコットを眺めていると、急にある光景がフラッシュバックした。
妹と一緒に部屋で遊んでいる最中に、お母さんに買い物を頼まれる。預かったお金を自分の財布に入れ、出かけようとしたら、妹が一緒に行くと言い出してぐずってしまう。妹はすでに自分も一緒に行く気満々で、お気に入りの小さなバッグを首から下げて、お出かけ仕様になっている。場面はそこで終わる。
その時は、なぜ急にそんなことを思い出したかわからなかった。わかったのは、ずうっとあとになってからだ。そしてわたしは平川さんへ連絡した。
♢
その日まで淡々と日常を過ごした。淡々と仕事をこなし、帰宅したら実話怪談作家としての活動をこなし、仕事帰りに猫のエサを買い、たまにピートと遊んで、早い時間に起床し早めに寝る。
仕事仕事仕事、作家作家、猫、すべて一人で完結。それがわたし。
特におかしな出来事は起こらなかった。見えない何かに突き飛ばされることもなく、真っ暗な穴の夢を見ることもない。夢を見ることはあったけれど、ただの普通の夢だ。
穏やかに二月が過ぎ、三月が来て、やがて東京でも桜が咲き始めた。去年も今年もかつての花見宴会の風景はない。桜にとっては酔った人間たちに自分の足元を汚されずに済むから、きっとホッとしているに違いない。
ひらひらと散り始めた桜がやがて葉桜になり、まるで薄紙細工のような八重桜の季節へと移ろっていく。四月はいつの年も忙しい。しかし我が社も在宅勤務およびシフト制が導入されたおかげで痛勤ラッシュを我慢せずに済むようになったから、だいぶ楽になった。
そういえば魔封の桜はどんな花だったっけ。一重だったのかそれとも八重だったのか。壮大な満開の風景と、儚げに散りゆく薄桃色の花吹雪、そしてほのかに甘い花の香りしか覚えていない。
そしてやってきたゴールデンウィーク。今年はまったく予定を入れていなかった。だから丸々、取材データの整理作業にあてた。
のんびり過ごした連休も終わり、そしてその日が来た。
首都高から関越自動車道へ入り、北へ。当初の計画では自分の車で行くつもりだった。わたしの個人的な用件に付き合ってもらうのだから当然だ。しかし平川さんは、長時間の運転は疲れるだろうからと、ご自分のセダンを出してくれた。
怪異体験の取材のために、しばしば遠方まで泊まりがけで出かけているわたしとしては、長い時間の運転など平気だった。
しかし「わたしの車で行きます」と言ったところ「いや、俺の車を出す」と返され「いいえ。悪いからわたしので」と言うと「別にいいよ。俺ので」
「でも」
「構わん。俺の車で行こう」
「そんな。悪いわ」
「いいって」
「でも」
などと際限のないループになりそうだったから、高速代とガソリン代および諸経費はわたしが持つという条件付きで甘えることにした。
「あれからどうだ。何も異常はないか」
「ええ。平川さんこそどうですか」
「ああ。変わりない」
こうして顔を合わせたのは久しぶりだ。わたしが肥やしにされそうになった事件以来になる。その間はメールのやりとりが何度か、でもそれだけ。
「先生と俺は、会ったらまずお互いの安否確認から始まるな」
「はは。そうですね。でもそれ、大切ですから」
「ああ。俺と先生の関係なんだが」
「えっ?!」
関係?なんだろう?
いきなり"関係"なんて言われたらドキっとする。
地味なジャケットにノーネクタイの白シャツと黒パンツ。いつものこの人のスタイルだ。それは非番の日であろうが変わらないらしい。右手をハンドルに置き、視線は前を向いたまま。
助手席のわたしは胸の動悸が止まらない。これから何を言われるのかドキドキそわそわしてしまい「平川さんはご結婚されているんですか」などと口走ってしまった。
「俺か?」
「は、はい」
"俺か"ってさ、ここにはあなたしかいないし。それにどうしてわたしが緊張しなくてはいけないの?
「しているように見えるか?」
「さ、さあ」
この人が独身なのか既婚なのか本当に答えを聞きたいのか?
自分でもわからい。
だから「独身だよ」とあっさり言われ、どうしてホッとしたのかもっとわからない。
「先生は?」
「何がですか?」
「何がじゃなくてさ。結婚してるの?」
「ぐっ。ゲホ」
自分が同じ質問をされるとは思っていなかったので驚いてしまい、ちょうど飲んでいたペットボトルのお茶が喉に詰まってむせてしまった。
「してるわけないじゃないですか」
「ないですかって言われてもな。まあ、もしも既婚だったら、こんな風に俺と二人っきりでドライブしたりしないよな」
「う。ゲフ」
またむせてしまった。
そんなにハッキリ言われたら余計に意識してしまう。もう、デリカシーなさすぎだよ。
「ん? どうかしたか先生」
「どうもしません」
「そうか。でも彼氏はいるんだろう?」
「ウッ、だ、だからいません!」
「ほう。へえ。それはもったいねえな」
「だいたいなんでそんなことを聞くんですか!」
「なんでって、先生が先に聞いたんじゃないか。俺に結婚してるのかって。だったら俺から先生に同じことを聞いても構わないだろう」
「あっ」
しまった。そうだった。
「それはそうと、さっきの話なんだが」
「さっきの?」
「俺と先生の関係について」
ドキッ。
せっかく忘れていたのに。
またドキドキが戻ってきてしまった。
何を言われるの。
何を言うんだろう。
関係って……。
この人とわたしの関係って。
歳の差はたぶん二十歳ぐらい。もっと近いかも。だから父と娘というほどには年齢が離れていない。
だから……だから……。
「俺と先生の関係って戦友みたいなものだと思うんだ」
「えっ? せんゆう?」
「ああ。共に戦い、共に幾多の戦地をくぐり抜けてきた戦友だよ」
「はあ」
「いままで俺は民間人と一緒に事件の解明にあたったことはない。警察官だからな。ほら、なんだっけ。見た目は子供なのに頭脳は大人ってさ。その主人公が飲んだくれの探偵の代わりに警察を差し置いて事件を解決する。あんなのは現実には有り得ん。だが俺と先生が対峙した相手は今までの俺の常識では対処できなかった。先生がいてくれたからこそ対処できた。先生と俺の関係を考えた時、俺はな……」
平川さんの話はダラダラと続いていたが、変な気持ちを抱いてしまった自分が馬鹿馬鹿しくなったので、途中から聞くのをやめた。
♢
高速を降り、国道を西へ。地方道に入った途端に路面の状態が悪くなった。さすがに雪は残っていない。冬に降ったであろう大量の雪が溶けて消えてしまうこの季節まで待った甲斐がある。
あと少しで、わたしが生まれ育った街に着く。わたしと莉音とお父さんとお母さんが暮らしていた街へ。
山の稜線に見覚えがある。その麓に広がっていたはずの畑は何かの施設になっていた。通り過ぎる時に、それが特別養護老人ホームであると知った。四角い無機質でモダンな建物と周囲の寂れた田舎の風情は、異質なのにマッチしている。そう感じる理由は、きっと両者とも内部に終焉を抱いているからだ。
避けられない死と過疎という名の終焉。しかし今のわたしはただの傍観者に過ぎない。
「ここがきみの故郷なんだね」
「思い出しかない場所をそう呼べるなら、そうです」
「若いのにずいぶん切ない台詞だな」
「もう若くないですよ」
「俺と比べたら十分に若いさ」
あの頃みんなで住んでいた家はとっくに人手に渡ってしまった。だからわたしとはもう関係ない。今日の目的地は別の場所だ。
県立高校に上がるまでこの街で母と暮らした。それ以前から母は冷たい無表情のまま何も喋らず、一緒に暮らしていても他人と変わらなかった。
一年生の秋に、ここから離れた街にある叔母の家に引き取られた。叔母の家族は優しかった。わたしに対して誰も怒ったり叱ったりしない。しかしそれは本当の家族への態度ではない。わたしはお客さんなんだと思った。そして大学へ進学した年にその家を出た。
薬局は昔のままだったが、その隣にあった本屋さんは雑草の生えた空き地になっていた。その書店でアイドルが載った雑誌を買ったり、立ち読みして怒られたこともある。
十年ちょっと、数えたら十二年前の秋に、この街を離れた。その年月の長さはわたしにとって遥か昔という思いがする。それなのに、妹との思い出だけが鮮明に、ついこの前の出来事のように感じる。
「その先の、二つ目の信号で右へお願いします」
「了解」
「曲がったら、真っ直ぐ百メートルほど先に小学校があります」
「その小学校が?」
「そう。そこが目的地なの」
校庭の脇に車を停めた。遊んでいる子どもの姿はない。車を降り、正門に回ってみると、頑丈そうな鎖でぐるぐる巻にされた鉄の門扉が立ち塞がった。ところどころに赤い錆が浮いている。
「閉校したらしいぞ」
門扉の真ん中に取り付けられた案内版を読んだらしい。腕を組んだ平川さんがわたしを見た。
「去年の秋に閉校になったようです」
「知っていたのか」
「ええ。解体の時期は未定とのことですけど」
ここはわたしの母校だ。妹もこの小学校に上がるはずだった。
「するとこの学校が例の?」
「そうです。大雪が降った翌朝に、雪鬼が妹を連れて行ってしまった場所です」
この校庭で放課後によく遊んだものだ。家の帰ってから妹を連れてまたここに戻る。妹とわたしの思い出の場所だ。それもいずれ無くなってしまう。
「そろそろ種明かしをしてくれないか。先生はこの街に大事な用があると言った。俺の助けが必要だと、他の人間ではなく俺でないと駄目なのだと言った」
「その前に、どこかから中へ入りましょう。わたしの大事な用件は校庭にあるので」
正門から歩いて裏に回る。その途中のフェンスに大きな穴を見つけたので、そこから校庭へ侵入する。閉鎖された公有地に無断で立ち入った現場を、もしもガードマンにでも見咎められたら、里帰りしたら懐かしくなって入っちゃいましたとか何とか言い訳すればいい。
「電車に乗っている時に、三人組の高校生がいたんです」
「んん。それは関係があるのか」
「はい。その子が背負っているリュックにフェルト製のキーホルダーがぶら下がっていました」
「うん。続けてくれ」
そこに向かって歩きながら平川さんへ説明する。
「そのキーホルダーがなぜかとても気になりました。でもどうしてなのかわからない」
「うん」
「それが三日も経ってから、急に思い出したんです。妹が生まれて、歩けるようになって、わたしと遊べるぐらいになった頃に、妹とわたしに母が作ってくれたんです。フェルトでできた動物です。手のひらに乗るぐらいの小さなワッペンみたいな。何が欲しい?と聞かれたので、わたしはうさぎ、妹はぞうさんと言いました」
それはわたしの記憶のままの姿でそこに立っていた。解体工事が始まったらきっと切り倒されてしまう。
「母はそのフェルトマスコットに名前を刺繍してくれました。うさぎにはわたしの名前。ぞうさんにはひらがなで妹の名前を」
ゴツゴツした幹肌を手のひらで触ってみる。横に回るとそれがあった。もっと高い位置だったはずと意外に思ったが、当時の自分はまだ子供だったから高いと感じたのだろう。
「ある日、夏だったかな。妹と遊んでいる時に、変な遊びを思いつきました。わたしと妹の大事なものをココアの缶に入れて、どこか誰にも見つからない場所に隠す。そして一年後にそれを取り出す。ほら、卒業記念に校庭に埋めて十年後に掘り出すタイムカプセルがありますよね。あれと同じ」
「ああ。なるほど」
「わたしは当時ファンだったアイドルのブロマイド写真にしました。でも妹は母が作ってくれたマスコットを入れると言う。わたしはそれはやめてと言っても聞いてくれない。そのうち、なぜかわたしも母のお手製マスコットを入れたくなった。だってそれがわたしの宝物だったから。そして二人の宝物を入れた缶を、このケヤキの大木に空いたうろの中に隠したんです」
それは子供だったわたしと幼い妹の他愛のない遊びだった。優しい母と優しい父と、かわいい妹。わたしの宝物。
「もしも誰にも見つかっていなければ今でもこのうろの中にあるはずです。なぜなら、取り出す前に妹がいなくなって、わたしはそれどころではなくて、今、大人になった自分が思い出すまですっかり忘れていたから」
「理解した。よくわかった。そのフェルトのマスコットが見つかれば、きみの妹さんが実在した証明になる。そういうことなんだな」
「そうです。だからわたしだけでは駄目だった。わたしが見つけても証明にならない」
「第三者である俺がそれを見つけることに意味がある」
「そう、そうです。だからお願いです。あの缶を取り出してくれますか」
黙ってうなずいた平川さんがジャケットを脱いだ。シャツの袖を捲り上げてから、ケヤキの幹にぽっかり空いた穴に手を突っ込んだ。
もしかしたら、もう無いかもしれない。
十年以上経っているもの。
きっと誰かに取られてしまっているに違いない。
あって欲しい。
見つけたい。
あなたが、りっちゃんが確かにいた証(あかし)を見つけたい。
りっちゃんがいた記録は全部消されてしまった。
でもあなたはちゃんと存在したんだよ。わたしはそれを知っているから。
「あった」と一言。うろから抜いた平川さんの手には錆びた缶があった。かろうじて"ココア"という文字が見て取れる。
「蓋を……開けてください」
「待て。固くて開かないんだ」
錆びてくっついてしまってるようだ。缶を握った手が、力を込めているためか、微かに震えている。
その瞬間は、間抜けなポンという音とともに唐突に訪れた。蓋が開いたのだ。中に入れた指が取り出したのは、カビだらけの二つの物体だった。一つはうさぎの形で、もう一つは象に見える。平川さんはその動物たちをひっくり返したり横から眺めたり、じっくり点検したあとに「手を出して」と言った。
それを受け取った手が震えていた。喉がカラカラだった。震える指でうさぎを摘む。真ん中あたり、うさぎのお腹にわたしの名前が刺繍されている。カビまみれだったけれどちゃんと読める。
次は象だ。震えが激しくなる。でも名前がない。あっ、と気づいて裏返してみる。するとそこに"りおん"の文字があった。
「俺は刑事だ。何事も疑うことから始まる」
平川さんが何か言っている。わたしの頭は痺れたようになってしまい、うまく機能しない。
「このココア缶もこのフェルトの動物たちも、きみの話に合わせてきみが用意したものであると考えることもできる。だが、この錆びまみれのココアの缶には製造年月日が書いてあってな。月日は腐食してしまって読めないが、製造年はわかる。今から十八年前だ。それからこのマスコット。缶の腐食状態からだいぶ前から中に入っていたと予想できる。そしてマスコットの状態も湿気によってカビが生えて、つまりだな、先生」
言葉を切った平川さんがガバッと地面に膝をついた。
「すまなかった。俺が間違っていた。きみを疑ってきみにひどいことを言ってしまった。このとおりだ」
麻痺状態だった脳みそが急速に回復した。自分が頼りにしている人の土下座なんて見たくない。
「いいんです。もういい。土下座はやめてください」
「きみに約束した。もしも俺が間違っていたら土下座して謝ると約束した」
「そうですけど、わかったからとにかく立ってください」
「なんでも言うことをきく。男の約束だ。なんでもする」
「なんでも?」
土下座はいらない。でも"なんでもする"は使えそうだ。
「わかりました。わたしが願いごとを言ったら土下座をやめてくれますか」
「ああ。なんでもするが、金は無いからそこは頼む。刑事の給料は安いんだよ。それから法に触れる願いごとも勘弁してくれ」
「お金もいらないし、やばいお願いもしません! わたしの願いごとはね……」
それを聞いた平川さんの顔が一瞬だけ強張った。しかしすぐにうなずいた。
まだ夕方と呼ぶには早い時刻だったが日が傾き始めていた。そろそろ撤収する潮時だ。せっかく来たのだから他に寄るところはないのかと聞いた平川さんへ、わたしは黙って首を振った。
もういい。わたしの幼き日々の宝物を取り戻すことができた。だからもういい。この街にはもう何もない。
帰りの車の中。前触れもなく急に込み上げてきた激情に流されそうになる。帰って一人になるまで我慢できそうもない。
「平川さん。もう一つお願いがあるの」
「ん。なんだ」
「泣いてもいいですか」
返事を聞く前に涙が溢れ出た。そして返事を聞いたら、もっと涙が溢れて止まらなくなり、声をあげて泣いた。
「泣いたらいいさ。いっぱい泣いたらいい」