ズズンと大地が振動した。空が暗い。魔の穴から立ち上る瘴気が陽炎のようにゆらめいている。息が苦しい。
魔坑から光が差している。いやらしい赤い光がゆらゆら揺れながら次第に強くなる。そして微かな物音が聞こえてきた。穴の底から何かがやって来る。
みんな、あそこにいるんだ。
「先生。駄目だ。見るな!」
平川さんが何か言っている。
なんだろう。
よく聞こえない。
わたしは……行かなくちゃ。
みんながいるなら、わたしも行かないと。
穴を、穴の底を、今度こそ穴の底を見るんだ。
ジリ、ジリっと巨大な穴に近づいてゆく。
もう少し、もう少しで見えそう。
あと少し、あと少しで……ああ……。
見えた。
赤いブヨブヨしたかたまりが、蠕動しながら迫り上がってくる。赤い光はそのかたまりの内部から差している。
見ていたら表面にポコっと穴が空いてそれが口になり、人の顔になった。真っ赤な顔だ。その口から声が。
「どうしてえええええええぼくおおおおおおおおおいいいいいいい」
おぞましい。
でも見るのをやめられない。
赤いかたまりが魔坑から空に向かって迫り上がる。ぷしゅうといやらしい音がする。それがわたしの目の前に降りてくる。わたしはそれに向かって手を伸ばす。するとそれがしゃべった。
"おねえちゃん"
伸ばした手をハシッと掴まれた。わたしもそれを力いっぱい掴んだ。
「莉音。もう離さない。二度とあなたを離さない」
"おねえちゃん"
やっとつかまえた。
もう決してこの手を離したりしない。
わたしの大切な、りっちゃん。
「ごめんね」
"おねえちゃん"
「ごめんね。りっちゃん。わたしはもうあなたを離さないよ」
後ろからはがいじめされ、思いっきり体を引っ張られた。でも手を離さない。今度はお腹を殴られた。でも離さない。
「先生! それはきみの妹なんかじゃない!」
「この子はりっちゃんなの」
どうして邪魔をするのかなと思った。
平川さんはどうしたんだろう。
せっかく莉音を見つけたのに。
赤いかたまりが沈み始めた。穴の中に沈んでいく。わたしも穴の方へ引っ張られていく。
「その手を離せ! 離すんだ」
「いやよ。絶対に離さない」
「きみまで落ちてしまう。だから離すんだ!」
いやだ。
離さない。
りっちゃんは離さない。
「わたしはもう二度と見捨てたりしないって誓ったのよ。だから離さない」
体がかしいだ。わたしは掴んだ右腕もろとも暗い穴へ落ちた。穴の底へ落ちていく…と、左腕を掴まれた。見ると、平川さんが穴の縁で踏ん張っていた。
「先生……右手を…-離せ」
「い、いやだ」
痛い。
腕がちぎれそうだ。
このままでは平川さんも落ちてしまう。
それは嫌だな。
でもわたしは離さない。
「平川さん。もういいです。手を離してください」
「きみが右手を離さないのなら俺も離さない」
困った人だ。
ほら、もう平川さんも落ちてしまうじゃないか。
急に右腕が自由になった。莉音が、掴んでいたわたしの手を振りほどいたのだ。体が浮いて、引っ張り上げてくれた平川さんの上にドスっと落ちる。
慌てて穴の縁まで這って行ったら、わたしが見ているうちに、赤い光がどんどん沈んでいき、暗い底に消えていった。
莉音。
どうして。
どうして手を離してしまったの。
あなたをこの手で抱きしめてあげたかったのに。
それが消える寸前に声が聞こえた。気のせいかもしれない。多分、気のせいだ。
「大丈夫か。先生」
「ええ。腕が痛いだけ。平川さんに殴られたお腹も」
「まったく、無茶なことをしやがる」
この人に抱き起こされるのは二度目だ。凶眼に襲われた時も、この頼もしい腕が助けてくれた。
さて、人柱問題を回避せねばならない。サバイバルナイフはどこかに行ってしまった。穴の中に落としてしまったようだ。敵と素手で闘うしかない。
急に、ふわっと甘い匂いがした。魔坑の上になにかが現れようとしている。ぼやけていた輪郭が、まるでレンズのピントを合わせるようにはっきりしていき、やがてそれは巨大な樹になった。
天に聳える満開の桜の木。甘い匂いは花の香りだった。
わたしたちと離れた場所で、ローブ姿の人物がその巨樹を見上げている。フードから見えている顔は整っていて美しかった。
「魔坑が閉じたわ」
綺麗な顔がローブの影になり見えなくなった。平川さんがわたしを背後に庇い、また左手を構えた。
「さあどうする。大人しく消されたりしないぜ」
「……」
間が空いた。その美しい人は考えているようだ。風が吹いた。ひらひらと薄桃色の花びらが舞う。
「あなたたちを帰すことにした」
「休戦ってことか。人柱はやめたと考えていいんだな」
「魔樹が回復しつつある。様子を見たい」
とりあえず、肥やしにされる危機は去ったらしい。
「蒼井さん。左手の刑事さん。また会いましょう」
麗子さんがそういい終えた瞬間、ぐらっと強烈なめまいに襲われた。それが治ってみたら、わたしたちはアスファルトの道路の端っこににうずくまっているところだった。