この空間にいるのはわたしたちだけではなかった。頭の先から足元まで届く丈の長いローブ。すっぽり被ったその黒いローブのせいで顔は見えない。その人物が、まるでわたしたちを出迎えるかのように、少し離れた位置でうっそりと佇んでいる。
いったい誰なのか。考えるまでもなく、わたしと平川さんをを待ち構えているであろう人物なんて一人しかいない。
「麗子さんですね」
「先生。それ」
「なによ?!」
横からツツッと肘を引っ張った手をじゃけんに払う。
「そのサバイバルナイフはどうかと思うが」
「だって」
「構え方はまあまあだが、先生にサバイバルナイフは似合わねえな」
似合う似合わないの問題じゃないと思う。それに、いくら修羅場に慣れている刑事だからって、こんな場合なのに余裕しゃくしゃくの態度が癇に障る。
霊や魔物に対しては物理的なアプローチは意味がない。しかし人間が相手なら話は別だ。それに、時として魔物よりも人間の方が怖い。
「得物を構えながらの交渉はまずい、と、俺は思うが」
「あの人が味方だと思っていますか」
「ぜんぜん。だがな。話ぐらいはできるだろう」
わたしの会話を聞いていたのだろうか。聞こえていないわけがないから聞いていたのだろう。それまで黙っていた麗子さんがいきなり喋り出した。
「あなたはわたしに聞きたいことがあるはず。そうでしょう」
「……ええ」
それは特徴のない声だった。女性にも男性のようにも聞こえる。一人なのに何人もの声が重なっているようにも感じる。不思議な声だ。
「あなたは麗子さんですね」
「そうであるともそうではないとも言える」
「それはどういう意味ですか」
そろそろとポケットに手を入れ、ICレコーダーがちゃんと稼働しているのを確認した。
「この場所以外では田中の妻の麗子であり、ここでは魔坑の守護者(ガーディアン)なのだから」
「ガーディアン?」
話の飛躍についていけない。一気に置いて行かれた。
「魔坑とはこの穴だよ」と、その人は優雅な動作で背後の穴を見やる。
「はるか彼方。時を超越し人智を超えた最果ての地に巨大な城が聳えている。棲まうは美しくも忌まわしい残酷な___と、漆黒の剣を携えた暗黒の僕(しもべ)だけ」
"残酷な"のあとの言葉がよく聞き取れなかった。それ以前に、いったい何を言っているのかさっぱりわからない。
「最果ての城の___は、神から追放された時に最愛の存在を失った。それ以来、幾星霜にも渡り、失ったはずの最愛の人を探し求めている。己にかけられた永遠の呪いにより、その人の顔かたちや名前すら忘れはて、愛し愛されたことのみ記憶に留めている」
話がわからないのは変わらないが、最愛の存在という言葉になぜか心が震えた。
「だからかの人は、いつであろうと愛に飢えている。己の渇望を満たすため、あらゆる時、あらゆる場所に、漆黒の僕を従え出現し、そこに破壊と殺戮の雨を降らすのだ。しかしその渇望が満たされる時は永遠に来ない。なぜなら愛を得た瞬間にすべてを忘れてしまうから。だからかの人は永遠に求め続け、永遠に破壊をもたらし続ける」
「さっぱりわからんが、その話と俺たちが何の関係がある」
黙って聞いていた平川さんが口を開いた。その人は質問に質問で返した。
「その左手の力はどこから来ていると思う?」
「知らん。同僚だった宮部という刑事を助けようとして、結局、俺のせいで死なせてしまった。その時に勝手に押し付けられたらしい」
「勝手にか。面白いことを」
ふふっと不気味に笑った。
「かの人の愛欲のために何度も世界が滅び、そのたびにに歴史が改変された。魔坑は最果ての城とその場所、その時をつなぐ通り道であり、私の役目はかの人がこちらへ現出するのを阻止することにある」
スケールが大きすぎて、もはや信じる信じないの範疇を突き抜けている。だからわたしはもっと素朴で現実的で卑近な質問を試みた。
「どうして田中麗子さんがそんな重要な役目を負っているのですか?」
「めんめんと受け継がれてきたものを私が引き継いだの。私には魔に対する素質があったから選ばれたというわけね」
なるほどと相槌を打ったものの、なるほど以外に言葉が見つからなかっただけで、どこの何がなるほどなのか自分でもよくわかっていない。
「私のほかにも、私のような守護者が何人かいる。数は多くないけど、世界に散らばった魔坑を監視している」
「そうなんですね」
「かの人の妄執はあらゆる魔を引き寄せ、魔を生み出す。だから魔坑は魔の巣窟なのよ」
無責任な"なるほど"は慎むと決めた。意味のない相槌よりも、今は聞くべきことを聞かねばならない。
「この場所は、この魔坑は元々は違う場所にあった。山の奥深くに。そうですね」
「そうよ。そのとおり」
「それがどうして、なぜこんな住宅街に出現したのですか。そのせいで、魔坑から現れた魔物によって犠牲者が出た」
Yukitoさんを襲った赤い魔物はこの魔坑から現れた。それは間違いない。ラウンジでわたしと平川さんを襲った凶眼も、それと同じ魔物なのか不明だが、根っこは同じだろう。
自転車に見えたのはYukitoさんの思い込みだったのか、それとも油断させるための擬態だったのか? わたしはおそらく後者だろうと考えている。
「魔坑が移動した理由については、あなたに考えがあるはず。言ってごらんなさい」
試されているのかな?
もしも答えが間違っていたら?
まあ、そんな些細な心配をしてみても、こんな異界に閉じ込められた身では今さらだろう。
さあ勇気を出して。
「林野庁OBの方の体験談の締めくくりに、土地開発事業者によりそのあたり一帯が破壊されてしまったとありました。破壊とは、住宅地開発のために、山を切り崩しその土を採取したのではないか? そしてその土はここ"見つからない家"のエリア一帯の土地開発のために運ばれた」
「人の手による自然破壊によって自ら魔を招いた。神も魔も土地に宿る」
「そうです。わからないのは、なぜここでは瘴気に満ちているのか、です。長野の山奥に存在していた時には、美しい風景であったと。それなのに……」
「ここに足らないものはなに?」
足らないもの?
それは……決まってる。
「大樹。巨木。空を覆い尽くすほどに枝を広げた桜の巨木が、ここには無いです」
「正確に言うなら桜ではない。最果ての地に時の初めから存在していた魔樹を始祖として、我々守護者が種を蒔き、増やし、かの人を封じる楔として、あらゆる時空、次元に置いたもの。魔をもって魔を制す。現在、桜として知られる樹木はそれらの遠い遠い子孫なのよ」
「はあ」
駄目だ。
やっぱりついていけない。
「遠い子孫でも魔の名残はある。"桜の下には屍体が埋まっている"という一文があるでしょう」
「ああ、それは知っています。元々はある小説家の短編に登場した一文です。その部分だけが一人歩きをして都市伝説のようになった」
「都市伝説でもある意味、嘘ではない。魔を引き寄せると同時に魔を封じる力がある」
話が脱線している。麗子さんとの会話は興味が尽きないが、楽しくおしゃべりしている場合ではない。
桜の祖先だかなんだか知らないが、その樹が"魔を持って魔を制す"の仕組みにより、魔を封じているという事情はわかった。であるなら元々の山奥では存在した抗魔の桜がここでは無いのはなぜだろう。
いや、そうじゃない。主婦から聞いた体験談では"見つからない家"には桜があった。その時々で見えたり見えなかったりしたらしいが。
んん? ああ、そうか。自然破壊がキーワードかもしれない。常世の抗魔の樹といえども生き物なんだ。だから山の中では生き生きと枝を伸ばしていたけれど、こんな市街地では環境が違い過ぎた。排気ガスなどの環境汚染、それから、もしかしたら人の悪意や邪(よこしま)な心をも魔として反応するのだとしたら、言うなればオーバーヒートを起こしてしまい、弱ってしまったのではないか。だから見えたり見えなかったりした。魔坑の周囲は魔に汚染されてしまい、生物はコケぐらいしか生きられない死んだ土地になった。
「そのとおりよ。あなたは頭が良いわね」
「それはどうも。あれ?えっ?わたしの考えていることがわかるの?」
「ええ。そうよ」
そうよって、軽く言ってくれるね。参ったな。
「ここの魔樹は死にかけている。魔を封じる力が弱っているの」
「だから魔坑から魔物が出てきたと?」
「そうね」
麗子さんの口調はあくまでも軽いけれど、それは大変よろしくない状況だ。
「だから新しい魔樹が必要なのよ」
「なるほど。そうですよね」
「だからあなたに新しい魔樹の素になってもらうつもり」
「は?」
「わかりやすく言えば、肥やし、人柱かな」
それは嫌だ。
肥やしにされるなんて冗談じゃない。
平川さんが、ずずっと前に出た。さっきまでの、のんびりした雰囲気はない。左手を前に構え、鋭い目でローブの人物を睨んでいる。
「先生。この女は俺たちを消すつもりだ。先生と俺は知り過ぎた。そうだろう、麗子さんよ」
「そうだね。帰すつもりはない」
一旦、鞘に収めたサバイバルナイフを再び抜いた。異界で役に立つとは思えないが、無いよりはマシという言葉がある。
「行方不明になった白井幸仁やコンビニの店員はどうなった」
「私には関係ない」
「なんだと」
「私は、かの人と従者たる暗黒の僕を監視し、こちらに来させないようにする使命がある。それ以外は私の管轄外だ」
「貴様。おまえも人間だろうが。おまえのせいで、貴様自身の話によるなら、貴様が怠けていたせいで魔界の桜の力が弱って、それが原因で魔物が現れた。全部、貴様のせいだろうが」
そういえばそうだ。こんな異常な状況なのに、平川さんは、冷静に、わたしは気づかなかった論理の穴を見つけたんだ。
「それを指摘されるとつらいね。だから今から挽回せねばならない」
「勝手なことを抜かすな」
「さっきの質問に答えてやろう」
「行方不明になった人間の件だな」
「そうだ」
「どこにいる」
すると、その人は魔坑を指差し、こう言った。
「みんな、そこにいる」