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第24話 "見つからない家"へ

 ブルージーンズにアウトドア用のいかついブーツ。厚手のウールのセーターの上に、登山用のマウンテンパーカーを羽織る。仕上げは全然おしゃれ系じゃないニット帽。これが秋口から冬場にかけて地方へ取材に行く時のわたしの定番スタイルだ。


 ピートのために、ベランダへエサと水を置く。もう二度とピートに会えないかもしれない。最後に抱きしめてあげたかったが、気まぐれな猫はいつも肝心な時にいない。まあ、猫なんてそんなものだ。


 必要な物と必要になるかも知れないツールを詰め込んだリュックを背負う。戸締りを確認し、ここには戻れないかもねなどとセンチメンタルな気分に浸りながら部屋をあとにした。


 電車を乗り継ぎ、二時間以上かかって目的の駅で降りる。車は置いてきた。万が一、わたしが行方不明になった場合は、駐車した場所に放置されてしまう車は邪魔になるし処理に困るだろう。そう考えたので公共交通機関で行くことにしたのだ。


 駅前のコンビニで水のペットボトルを買う。もしかしたら店の前に赤い自転車がいるかもと思ったが、そんなことはなかった。今のところ順調で何も起きていない。わたし一人なのが予定とは異なっていたけれど、それに関してはもはや、なるようになれという気分だった。


 決して一人では行かないようにと忠告したくれた田中さん。すみません。諸事情で一人で行くことになりました。ごめんなさいと心の中で謝る。


 駅のロータリーまで戻り、ちょうど到達したバスに乗る。あと少しだ。あと少しで到達する。


 そのバス停で降りたのは、幼い女の子を連れた若いお母さんとわたしだけだった。平日の、お昼にはまだ間がある中途半端な時間だから、バスの利用者が少ないのだろうと思った。


 女の子はたぶん三歳ぐらい。わたしと目が合ったら小ちゃな可愛らしい手を振ってくれた。その姿にどうしても莉音を重ねてしまう。でも今は感傷に浸っている場合ではない。


 わたしの目の前に予想していたとおりの街並みがあった。どこにでもある、平和そうな住宅街にしか見えない。禍々しい雰囲気のかけらも感じない。ここにあの家があるなんてとても信じられない思いだ。


 見つからない家をどうやって見つけるか?それについては心づもりがあった。しかしそれは頼もしい助っ人と二人でここに来る前提での作戦だった。一人で来てしまったからには自分でどうにかしないといけない。


 どうする。

 どう……しよう。

 とりあえず、歩いてみるかな。


 ポケットからICレコーダーを取り出し、スウィッチをオン。歩きながら、街の人に怪しまれないようにー小声で録画を開始する。


「わたしは今あの街にいる。広い車道に広い歩道。先ほどの子供連れはどこかの家に帰っていったらしい。広い歩道に人影は見えない。広い空。曇りがちで風は少し冷たい。その空に下に、静かでごく普通の街並みが続いている。あの家はいったいどこにあるのか」


 平日の昼間なのだからひっそりしているのは自然でどこもおかしくはない。


 おかしいのは完全装備の自分ぐらいだ。散歩をしているようにはとても見えないだろう。実際のところ、さっきの若いお母さんはお辞儀をしてくれたものの、このヘビーなフィールドスタイルファッションにチラッと目を走らせてから、かすかに顔を歪めたのをわたしは見逃さなかった。


「碁盤の目のようにきっちり区画された街である。半分ほど歩き回ってみても、手がかりすら見つからない」


 やはりわたしだけでは駄目なのか。

 あの人がいないと、あの力がないと、わたしでは見つけられない。

 困ったな。


 小さな公園があった。その横を過ぎて角を曲がったところで、前から急に人が現れた。避ける間もなくぶつかりそうになる。


「すみません。あ」

「あ……」


 反射的に謝ってから、自分が衝突しそうになった相手が誰なのか、すぐに理解した。あちらの事情も同じようだ。


「……」

「どうも先生。いや。その。こんにちは」


 何が"こんにちは"だよ。

 白々しいったらありゃしない。


「どうして平川さんがここに?」

「それは、あれだ」

「わたしを止めようとしても無駄です」

「まあ、そうだろうな」

「危険だから帰っていただいて結構ですよ」


 この人がいないと困るのに、自分だけでは埒があかないのに強がってしまう。本心では嬉しかったのに、そんなそぶりは絶対に見せたくない。


「あの家は?」

「まだ見つかりません。わたしのことはどうぞお構いなく」

「このあいだのことなんだがな」


 ずんずん歩いていくわたしの横に平川さんはピッタリくっついてくる。


「あれから、よく考えてみたんだ」

「何をですか」

「妹さんのことだよ」


 妹という言葉に反応し、足が止まる。でもすぐにまた歩き出す。


「わたしには妹なんていない。そう言ったじゃないですか」

「ああ、それなんだが。白井幸仁のデータが丸ごと消されていたのを覚えているか」

「えっ。ええ。覚えています」

「もしかしたら、きみも妹さんの件も同じじゃないかと、ふと思ったんだよ」

「同じ?」

「何ものかによって故意に消された。戸籍の記載も当時の警察の記録も新聞記事も、な」

「……どうなのかな」

「俺は正直言ってわからなくなった。きみに関わってから刑事としての常識が通じない。何を信じればよいのか、わからなくなった」


 闇雲に歩くのをやめて立ち止まった。平川さんの気持ちがよくわかる。怪異に関わってからのわたし自身が同じ気持ちだったからだ。


「わたしはわたしを信じる。だから妹は存在するんです。戸籍とか記録とか関係ない」

「きみは強い人だね」


 それはどうだろうと思う。強くなんかない。だって、この人に会えて、こんなにもホッとしている自分がいるのだから。


「もしも、もしもだ。俺が間違っていたら、きみに妹がいたと確信できたら、その時は土下座して謝る。なんでもする」

「土下座なんて、大袈裟です。そんなことよりも平川さんにお願いがあるの」

「なんだ。俺にできることなら何でもするぜ」


 うん。

 やっぱり頼もしい。


「普通に探してもあの家は見つからない。見つかるはずがない。だから平川さんの左手が必要なんです」

「俺の左手が?」

「その左手は魔に反応し、魔を退ける。病院で赤い魔物を殴った時のことを覚えていますか」

「覚えているよ」

「殴った瞬間に鋭い音がした。そして赤い霧が消えて魔物も消えた」

「実際には当たらなかったがな」


 拳が実際に当たる必要はない。当たらなくても結界を破壊できる。先日のラウンジでの出来事もそうだ。平川さんが左手をかざしただけで、凶眼の魔物は退散した。


「それで、俺はどうすればいい。ここにある家全部殴ってみるか?」

「そんな必要はありません。いいですか。わたしの言うとおりに……」


 左手を前に、目を閉じて、意識を集中する。心を無にして、ただ自分の左手が何かを掴むところを想像する。念じる。強く、もっと強く。


 景色がぐわんと回った。周囲に響き渡るほど大きなビシィッという音。それは文字どおり空間が裂けたような音だった。続いて襲ってきた強烈なめまいに立っていられず、その場にくず折れてしまう。


「先生。先生、大丈夫か」

「うう。大丈夫です」


 平川さんに助け起こされた。どうやら成功したらしい。しかしその場所はわたしの予想を大きく裏切ったものだった。


 なだらかに隆起した広大な丘。周囲は天まで届きそうな白い壁にぐるっと囲まれている。いや、壁に見えたのは白い霧だった。霧の壁だ。


 これは、あの"木の幽霊"の丘であると悟った。元林野庁の職員が不思議な体験をした場所である。しかし同じ場所なのに様子が違う。丘を覆っているのは草原ではなく、気味の悪い緑色をしたコケだった。


 林野庁OBの体験のような美しい風景ではない。それとは真逆の禍々しい瘴気に満ちている。


 桜の巨木がなかった。巨木の代わりに大きな穴があった。真っ黒い大きな穴が丘の真ん中に空いている。それはわたしの夢に何度も出てきた穴であると、気がついた。



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