わたしは穴を覗いている。地面にぽっかり開いた四角い穴から一歩下がった位置に立ち、ググッと首だけを伸ばして暗い穴の底を覗こうとしている。あと少しで、もう少しで見えそうだ。
それ以上近づくと落ちてしまいそうで怖かった。だからそこに立ったまま、暗い穴を覗いている。覗く、もっと首を伸ばして、もっと、もう少し、あと少しだ。
でも見たくなかった。見たらきっと後悔する。きっと嫌なことが起こる。だから見たくない。見たら駄目だ。見てはいけない。見たくないのに、嫌なのに、覗くのをやめられない。
穴から風が吹いている。暗い穴の底から吹き上がってくる生臭い風が、無様な恰好で穴を覗いているわたしの髪を、頬をなぶってゆく。
何かがやってくる。見えないけれど、それが、ずる、ずる、ずるっと、ずうっと下の方から、ぬめぬめした穴の壁を這い上ってくるのがわかる。穴から吹いてくる生臭い風はそれの吐く息だった。
ずる、ずる、ずる。
それの這う音が聞こえる。
はあ、はあ、はあ。
それの息づかいが聞こえる。
……え…ん。
それの声が……い、いやだ、いや、いや、いやだ、聞きたくない。
もうちょっとで、あとちょっとで、見たくないのに、嫌でたまらないのに。
いやだ、いやだよ、あ、ああ、あああ、手、手が、手っ、手、手っ、手ぇ、
手がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ、あ、あ、あっ。
いや、いや、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ……………。
「ああああっ!」
自分の叫び声でハッと踏み止まった。
穴の縁、ぎりぎりの位置で右足を踏ん張り、引き摺り込まれそうになるのを堪えた。赤黒いぬらぬらしたものに右腕をしっかり捕まえられていて、穴の中へと強い力でグイグイと引っ張られている。
「ぐ、くぅ」
食いしばった歯の隙間からうめき声が漏れた。
これは夢じゃ……ない?!
下がろうしてもビクともしない。逆に、ジリジリと真っ黒な穴に向かって引っ張られていく。
穴の中が見えてきた。もう少しで、あと少しで、でも見てはだめだ。見たら戻れなくなる。だから必死で顔を背ける。
しかし顔を背けたことで力が入らなくなってしまった。抵抗力を失った身体がグイッと引かれ、わたしは穴の中へと落ちていった。
耳元で声がした。目を開けて見ろと誰かが囁いている。いやらしい声で囁いている。
でも嫌だ。見たくない。見たくなかった。だからギュッと目をつむっていた。
いったい、どこまで落ちてゆくのだろうと思った。穴の底まで落ちたら、わたしはどうなるのかな。穴の底に叩きつけられて、身体がグシャッと潰れてバラバラになって、死ぬんだろう。
不意に、耳を塞いだ手を握られた。小さくて柔らかで温かなそれは、まるで幼な子の手のようだ。その感触がわたしの中の遠い日の記憶を呼び起こす。
ミーミーンという蝉の声。暑い。酸っぱいような草いきれの匂い。太陽がまぶしい。真っ青な空にもくもくした雲が浮かんでいる。
麦わら帽子を被ったわたしは、右手には虫取り網、左手で妹の手を引いている。莉音は首から下げた虫かごを揺らしながら、なんだかわからない出鱈目な歌を口ずさんでいる。とても楽しそうだ。
場面がぐるっと回転する。
雪の積もった真っ白な校庭。寒い。かじかんだ手で雪玉を作り、莉音と一緒に雪の上を転がして大きな雪玉にしていく。しかし雪だるまを完成させる前に莉音は飽きてしまったらしい。仕方がないので、ぐずる莉音の手を引いて歩き出す。
「帰ろうか」
「うん。おねえちゃん」
……おねえちゃん?
莉音?
「莉音!」
叫びながら目を開けた。両膝がゴツっと大きな音を立てて穴の底に激突する。痛い。激痛で目がくらみ、涙が滲んだ。その滲んだ目で見た穴の底は……フローリング?
えっ?
ここは?
わたしは自分の部屋の床に両膝を抱えて横たわっていた。膝が砕けたかもしれない。それほど痛かった。どうやらベッドから床に向かって思い切りダイブしたらしい。
部屋が明るい。ベランダのカーテンの隙間から差し込んだ光が、床に模様を描いている。
もう朝か。
はあ。
ぜんぜん寝た気がしない。
夢を見て寝ぼけたのか、それとも夢魔にでも魅入られたのかわからない。おそらく後者だろうと思った。その証拠に、腕に何かが巻きついたような不気味なあざができていた。
小さな手の温かい感触を思い出す。
わたしを助けてくれたのは莉音。
あなたなんだね。
わたしはあなたの手を離してしまった。
それなのに、莉っちゃんはわたしを助けてくれた。
ごめんね。
ごめんね。
りっちゃん。
そして……ありがとう。