ロディス兄上との戦いから一夜が明けた。
その日、兄を打ち倒したことで屋敷中の雰囲気は変わっていた。
従者たちの間では、次の爵位が誰に継承されるのか騒ぎになっていた。
ロディス兄上を倒したという事実は、アースレイン家の序列を揺るがすものだった。
アースレイン家の序列は、長兄グレイス、次兄ロディスが盤石だった。
そこに僕がウイルを倒して、ロディスまで倒してしまった。
そして今、その序列は僕が第二位になった。
長兄グレイスに次ぐ、後継者候補として、アースレイン家の代表に名を連ねることになる。
貴族社会において、それは決定的な意味を持つ。
「おはようございます、ヴィクター様! 本日の朝食、お口に合いますよう精一杯仕上げております!」
「お部屋のシーツを、今朝一番で取り替えさせていただきました!」
「廊下をお通りの際は、どうぞお声かけください。ヴィクター様がお通りの間、他の者は全て遠ざけますので!」
屋敷のメイドや執事たちの態度が、手のひらを返したように丁寧になった。
すでに、ロディスは部屋から追い出されて、僕の部屋はロディスが使っていた部屋を与えられている。
ウィルの部屋の三倍に広がった部屋は、クローゼットルームや訓練所まで部屋と繋がっていた。
数ヶ月前まで、存在しないアースレイン家の息子だった。
だが今は、グレイス兄上に次ぐ存在として大切に扱われ、視線には尊敬と畏れが入り混じっている。
アースレイン家に務める者たちは強さにこそ敏感なのだ。
その変化の中で、ひときわ誇らしげな表情を浮かべていたのが。
「……ご覧くださいませ、ヴィクター様!」
執事服の襟を正し、背筋をぴんと伸ばしたドイルだ。
僕のことを主君そのもののように振る舞っていた。
「このドイル、ついに報われました……! 他の者たちが、見てください、この私を! ヴィクター様の専属執事として、ようやく正当に評価される時が来たのです!」
その鼻の高さは天井を突き抜けそうなほどだった。
「……お前、いつもそんな顔してたか?」
「いえ、誇りです! これは、誇りの表情でございます!」
僕は思わず溜息をはいた。
だが、一番最初に忠誠を誓い、血の契約をした相手だ。
心を持たない僕の代わりに、ここまで喜ぶ姿に悪い気はしない。
変わったのは、周囲の評価だけではない。
自分自身が、家の中で何かを掴み取り始めているという実感があった。
「とはいえ……本当に、昨日のご決闘は痺れました! これぞ主従の誉れでございます! 令嬢たちの視線がヴィクター様に釘付けで……いやはや、鼻が高うございます!」
令嬢たちと言われて、アリシアとフレミアが見ていたことを思い出す。
「鼻が高いのはいいが、調子に乗るなよ」
「はい、それも誇りでございますので!」
どうやらこの執事には、今後もしばらく苦労させられそうだ。
だが、今は少しだけ、この変化に身を任せてみるのも悪くないかもしれない。
彼女たちが、昨日の戦いをどう見たのかは分からない。
けれど確かなことは一つ。
アースレイン家の中で、僕はもう地位を手に入れた。
勝った。認められた。称賛を浴びた。
そんな中、僕の元を最初に訪れたのは、フレミア・カテリナだった。
場所は、屋敷の離れにある小さな温室。
「フレミア嬢……」
僕が声をかけると、彼女はそっと振り返り、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「……来てくれると思っていました」
彼女はそう言って、白い花を撫でながら続けた。
「ロディス様に勝利おめでとうございます」
「いや、たいしたことではない」
「アースレイン家の序列第二位がたいしたことではないと……ふふ、さすがですね」
僕は言葉を返さなかった。
「人は、何かを喪ってから強くなることもあります。でも、あなたの強さには悲しみがありました」
図星だった。
ロディスを倒したことで手にした地位。それでも、どこか虚しさが胸に残る。
フレミアは静かに俺の目を見る。
その瞳は澄んでいて、どこまでも優しく、けれど真っ直ぐだった。
「私はあなたをますます好きになりました。人は答えのない問いを抱えるとき、最も人間らしくなれるのだと、私は思っています」
「フレミア嬢……君は、どうして僕にそこまで興味を持つ?」
彼女は少しだけ考える素振りを見せたあと、微笑みながら言った。
「それはきっと、あなたの闇が、私の光を求めていると感じたからです。そして……あなたが誰かを裁くより前に、自分自身を知ってほしいとも思っているのです」
僕はしばらく黙って、温室の奥の陽だまりを見つめた。
フレミアは何も言わず、ただ静かに待ってくれていた。
「……そうか」
そして僕は、フレミアとの会話を終えて、アリシア・ラヴェンデルの元へ向かった。
かつての初恋の相手であり、未来で俺を毒殺した女。
今の彼女が見せる純粋さと優しさは、本物なのか?
それとも妖精という存在が見せる虚飾なのか?
「アリシアに、会いに行く」
僕のその一言に、フレミアは小さく目を閉じて頷いた。
「はい。それがきっと、あなたの未来を変える第一歩になると思います」
僕は背を向け、温室を後にした。
その背に、フレミアの祈るような声が静かに届いた。
「どうか……あなたが、闇に染まって、正しい絶望を選びませんように」
その言葉の意味は、まだわからなかった。
だが俺は、確かに一歩を踏み出したのだ。
アリシア・ラヴェンデル。その真実に触れるために。