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第32話

 婚約発表の場を終えたあと、僕は一人、重い足取りで自室へと戻っていた。


 静まり返った廊下を歩くたび、先ほどの広間の喧騒が耳に残る。


 怒鳴り声、驚きのざわめき、二人の令嬢の沈黙。


 すべてが冷たく胸の奥に張り付いていた。


 だが、どの現象に対しても、僕の心は何一つ動かない。


 扉を開けると、既に部屋の中にはリュシアがいた。


 窓際に立ち、カーテンの隙間から夜空を眺めている。振り返りもせずに、呟くような声で言った。


「遅かったですね、ご主人様」

「……面倒な付き合いをしていたからな」

「ふふ、ご主人様は相変わらずね。底が見えないほどにお腹の中が真っ黒」


 僕はベッドの端に腰を下ろし、額を手で押さえる。


 全身が重くなったかのように、言葉を出す気力すら奪われていた。


 一つ一つの出来事が面倒ではあるが、これでアリシアとの関係を進めることができる。彼女に近づくことで、彼女の裏にあるものを見定める。


 リュシアは静かに歩み寄り、僕の上に腰を下ろすと、ふっと笑った。


「なぜ、上に乗る?」

「ふふふ……だって、スケコマシなご主人様がとても面白いだもん」

「……」

「まさか、あんな大事な場で、令嬢たちの心を弄ぶなんて、とても素敵」


 彼女の考え方は独特すぎて相手をするのも今は疲れる。


「どうでもいい」

「はいはい、そうでしょうとも。でも、それが《外からどう見えるか》なんて、ご主人様は少しも気にしてませんでしたよね?」

「当たり前だ」


 リュシアはくるくると指先で髪を弄びながら、僕の横顔を盗み見る。


「最低のすけこましですねぇ?」


 その言葉は柔らかくも、しっかりと僕を責める。


 僕は何も言い返さなかった。


 怒鳴る兄の声。アリシアの震えた声。フレミアの揺るがぬ瞳。


 僕は、誰一人彼らの望みを叶えるつもりはない。


「……目的のためには手段を選ばないご主人様は、素敵です」


 静かな声だった。


 ふざけた調子をそのままにリュシアの瞳はまっすぐに、鋭く僕を見ていた。


「ご主人様って、全部を自分の中で完結させてからでないと、人と向き合えないでしょう? 正しい答えが出せるまで、他人を信じない。信じさせない。それは前から? それとも過去に戻ってきたから?」

「どういう意味だ?」


 彼女は立ち上がり、僕を真っ直ぐに見下ろして言った。


「もしも、今日の出来事や判断が、普段からご主人様の思考なら、きっとご主人様は裏切られても仕方ない人かもしれない」

「……魔族に何がわかる?」


 僕はどこかで投げやりにリュシアの言葉を聞いていた。


 訓練をするよりも、婚約者を決める行為は心労が多かった。 


「誰かを巻き込んでおいて、“まだわからない”なんて通用しません。あなたが抱えてる《闇》は、そういうことすら平然とやってしまう。でも、それがどれだけ人を傷つけるか、ご主人様は……本当に、わかってないんですよ」


 彼女の言葉を聞いて、静かに彼女を見つめる。


「言葉って、怖いんです。言霊は呪いを生む」


 リュシアは少しだけ微笑み、でもその表情はどこかいつもの狂気に染まった彼女ではなく、寂しく感じられる。


「どんなに正しいことでも、言葉一つで軽く見える。信念も覚悟も、台無しにできる。それを知らないと、また誰かに殺されますよ、ご主人様」

「……」


 未来の僕は、仲間を信頼していた。


 彼らのためになると信じて、突き進んでいた。


 僕は未来の仲間たち一人一人のことをどれだけ知っていただろうか? アリシアのことも全てを知っていたのか?


 今のアリシアを信じれなかった。


 フレミアのことも信じられなかった。


 仲間に、恋人に、世界に裏切られたから……。


 リュシアはくるりと背を向け、カーテンの前へと戻る。


「でも、私はそういうご主人様が大好きよ。孤独で、深淵に落ちていて、闇に染まっている」

「そうか」

「……私にとって、ご主人様は最高の“絶望製造機”ですから」


 今度の笑顔は、どこまでも本物だった。


 蠱惑的で、狂気を含んだその瞳は、どこまでも僕の底を見ようとしているように感じられる。


 月明かりが差し込む部屋の中、僕はゆっくりと立ち上がった。


 背筋を伸ばし、静かにリュシアの横に立った。


「……フレミアとアリシア。二人に、ちゃんと向き合う」

「ふーん、どんな意味が?」

「今の僕にはどちらも必要ではない。だけど、今後の未来を思えば、共に歩む者を選ばなければならない」


 リュシアはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。


「よろしい。ならば、この一ヶ月……どちらを絶望に落とすのか、楽しみにしています」


 その声音は、どこか楽しげで、同時に底知れないものを秘めていた。


「ご主人様がどれだけ人を理解できるのか? 見せてくださいね。希望に満ちていた者は絶望を、絶望を知ろうとした者は落胆を。どちらにしても私には最高の食材になるわ」

「お前はどこまでも自分のことばかりだな」

「当たり前じゃない。私は魔族なんだから」


 その言葉に返す言葉はなかった。


 ただ、自分の中で気持ちの整理ができていた。


 リュシアと会話をするたびに、道標ができるような気がする。


 僕は窓の外を見上げた。


 目的のためならば、手段は選ばない。


 たとえ誰かを傷つけようとも。

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