大広間に、重たい沈黙が落ちていた。
幾重もの視線が、ただ一人の僕に集中している。
空気は凍りついたように張り詰め、時計の秒針の音すら聞こえてきそうだった。
扇のように整えられた円卓の中心に立つ父、アースレイン侯爵が、厳かな声で問う。
「ヴィクター、お前の婚約の意思を示せ。誰を選ぶのか、今ここで明かすのだ」
その声音には、迷いも、甘えも許さない重みがあった。
婚約者選ぶ。
それは貴族社会における「立場」を決定づける、大きな意味を持つ。
だが僕にとって、それ以上に重いのは、彼女たちとの関係だった。
アリシア・ラヴェンデル。
かつての初恋の相手。未来では、僕を毒で殺そうとした女。
フレミア・カテリナ。
聖女の家系に生まれ、誰よりも現実を見つめながら、僕の「闇」を受け止めようとする強い女性。
二人の令嬢は今、静かに、だが確かな熱を秘めてこちらを見つめている。
どちらも、本気で婚約を望んでいるのが伝わってくる。
僕の過去と向き合おうとし、僕の心を知ろうとし、僕と未来を共に歩もうとしている。
その視線の重さに、胸の奥がざわつく。
そして僕は、深く息を吸い込み、静かに答えを口にした。
「……僕は、アリシア・ラヴェンデル嬢を選びます」
一瞬、大広間の空気が揺れた。
アリシアの肩が小さく震え、彼女の瞳に驚きと喜び、そして安堵が同時に浮かぶ。
対して、フレミアは……静かに目を閉じ、再び開いた時には、微笑を崩すことなく、落ち着いたままだった。
しかし、その瞳には、確かに燃えるような光が宿っていた。
僕は席を立ち、アリシアの元へと歩み寄る。
周囲の視線が再び集中する中、彼女の前に立ち、言葉を継いだ。
「アリシア・ラヴェンデル嬢。僕は、君のことをまだ完全には理解していない。未来を共にするには、君という存在をもっと知る必要があると思っている」
未来で、アリシアが裏切った理由を知るために彼女を選んだ。
彼女の指が膝の上でぎゅっと握られた。僕の言葉が突き刺さっているのが分かる。
だが、僕は続けた。
「だから、僕は一ヶ月間の猶予をもらいたい。君を、そして自分の気持ちを見つめ直す時間が必要だ。……それでいいか?」
アリシアはほんの一瞬だけ目を閉じた。
瞳の奥で渦巻く感情が、迷いと焦燥、そして何よりも望みを諦めたくないという意志を表していた。
「……はい。もちろんです。私を選んでよかったと思ってもらいます。あなたの傍にいられることが……それだけで、私は幸せです」
彼女の声は震えていたが、必死に笑みを浮かべて覚悟を示した。
だが、それで終わりではなかった。
「お待ちください!」
声を上げたのは、フレミアだった。
「フレミア・カテリナ嬢?」
「一ヶ月の猶予を私にいただけませんか?」
「えっ?」
「私のことももっと知ってもらいたいのです。今回は、確かに期間が短かったと思います」
フレミアは覚悟を決めた顔で、微笑んだ。
「それは?」
僕は、当主である父上に視線を向ける。
そんなことが許されるのか分からなかったからだ。
「かまわぬ」
だが、意外にも許可が降りた。
「ありがとうございます。アースレイン侯爵様。ヴィクター様が何を選び、何を掴むのか。それを見守ること、私の覚悟の一部です」
彼女の声には、一切の迷いがなかった。
選ばれなかったという事実に、少しも動揺せず、堂々と受け止める。
それが、彼女の強さだ。
「……わかった」
それだけを告げ、僕は二人の令嬢の間に立った。
この選択には、二人の未来を左右する重みがある。
アリシアは安堵と喜びに微笑み、けれど瞳の奥には焦りがあった。
フレミアは静かに佇み、一歩先の未来まで見据えているかのように、揺るぎない眼差しを向けていた。
突然、乾いた音が広間に響いた。
それは、重く鋭く、刃のように空気を切り裂く一喝だった。
「……ヴィクター、ふざけるな!!」
その声の主は次兄、ロディス・アースレインだった。
席から勢いよく立ち上がり、鋭い眼光で僕を睨みつけている。
その目には怒りの焔が宿っていた。家の名を背負う者としての誇りが、怒りへと変わって燃えているのだ。
「貴様、貴族の婚約をなんだと思っている?」
低く、だが押し殺せぬ激情が、彼の声に宿っていた。
広間の空気が一変する。
雷が落ちたかのように従者たちは一斉に動きを止め、他の令嬢たちも顔を強張らせている。
父である侯爵も黙して様子を見守っていた。
「選ぶとは、
その言葉に、僕は静かに彼の目を見返す。
「理解している。だからこそ、より深く知るために一ヶ月の猶予を望んだのです。中途半端に選ぶ方が、よほど愚かだと僕は思います」
「言い訳にしか聞こえん!」
ロディスが足を踏み出す。その一歩に、圧があった。三段階を超える闘気を持つ彼が、本気で怒っているのが分かる。
「貴様のその優柔不断な態度が、ラヴェンデル家にもカテリナ家にも、そしてアースレイン家の名にも泥を塗っているのだと気づけ!」
「兄上、俺は誠実にラヴェルデルを選んだつもりです」
「誠実だと? 女を二人並べて、迷っていると公言することのどこが誠実だ!」
鋭い叱責グレイスは怒りを押さえながらも、僕の目を見据えたまま、絞るように言った。
「……お前は弱い。心がだ。強さとは、決断する覚悟のことだと、まだ理解できていないのか?」
その言葉は、深く僕の胸に突き刺さった。
そして、広間が再び静まり返った。
アリシアが息を呑み、フレミアの唇が僅かに引き結ばれるのが見える。
ロディスの叱責は正しい。
この場で選ばずに先延ばしにした。
だが、その判断を間違っているとは思っていない。
この先に僕自身の“真の選択”があると、信じて。
「俺は貴様の性根を認めん」
その日、屋敷には長兄と皇女の祝福に包まれた。
だが僕だけは、その祝福の中で、まったく笑うことができなかった。
この一ヶ月で、僕は真実と向き合わなければならない。
彼女たちの言葉。想い。未来。
すべてを知った上で、最後の選択を下す。
そして、ロディスからは完全に敵意を向けられることになった。