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第31話

 大広間に、重たい沈黙が落ちていた。


 幾重もの視線が、ただ一人の僕に集中している。


 空気は凍りついたように張り詰め、時計の秒針の音すら聞こえてきそうだった。


 扇のように整えられた円卓の中心に立つ父、アースレイン侯爵が、厳かな声で問う。


「ヴィクター、お前の婚約の意思を示せ。誰を選ぶのか、今ここで明かすのだ」


 その声音には、迷いも、甘えも許さない重みがあった。


 婚約者選ぶ。


 それは貴族社会における「立場」を決定づける、大きな意味を持つ。


 だが僕にとって、それ以上に重いのは、彼女たちとの関係だった。


 アリシア・ラヴェンデル。


 かつての初恋の相手。未来では、僕を毒で殺そうとした女。


 フレミア・カテリナ。


 聖女の家系に生まれ、誰よりも現実を見つめながら、僕の「闇」を受け止めようとする強い女性。


 二人の令嬢は今、静かに、だが確かな熱を秘めてこちらを見つめている。


 どちらも、本気で婚約を望んでいるのが伝わってくる。


 僕の過去と向き合おうとし、僕の心を知ろうとし、僕と未来を共に歩もうとしている。


 その視線の重さに、胸の奥がざわつく。


 そして僕は、深く息を吸い込み、静かに答えを口にした。


「……僕は、アリシア・ラヴェンデル嬢を選びます」


 一瞬、大広間の空気が揺れた。


 アリシアの肩が小さく震え、彼女の瞳に驚きと喜び、そして安堵が同時に浮かぶ。


 対して、フレミアは……静かに目を閉じ、再び開いた時には、微笑を崩すことなく、落ち着いたままだった。


 しかし、その瞳には、確かに燃えるような光が宿っていた。


 僕は席を立ち、アリシアの元へと歩み寄る。


 周囲の視線が再び集中する中、彼女の前に立ち、言葉を継いだ。


「アリシア・ラヴェンデル嬢。僕は、君のことをまだ完全には理解していない。未来を共にするには、君という存在をもっと知る必要があると思っている」


 未来で、アリシアが裏切った理由を知るために彼女を選んだ。


 彼女の指が膝の上でぎゅっと握られた。僕の言葉が突き刺さっているのが分かる。


 だが、僕は続けた。


「だから、僕は一ヶ月間の猶予をもらいたい。君を、そして自分の気持ちを見つめ直す時間が必要だ。……それでいいか?」


 アリシアはほんの一瞬だけ目を閉じた。


 瞳の奥で渦巻く感情が、迷いと焦燥、そして何よりも望みを諦めたくないという意志を表していた。


「……はい。もちろんです。私を選んでよかったと思ってもらいます。あなたの傍にいられることが……それだけで、私は幸せです」


 彼女の声は震えていたが、必死に笑みを浮かべて覚悟を示した。


 だが、それで終わりではなかった。


「お待ちください!」


 声を上げたのは、フレミアだった。


「フレミア・カテリナ嬢?」

「一ヶ月の猶予を私にいただけませんか?」

「えっ?」

「私のことももっと知ってもらいたいのです。今回は、確かに期間が短かったと思います」


 フレミアは覚悟を決めた顔で、微笑んだ。


「それは?」


 僕は、当主である父上に視線を向ける。


 そんなことが許されるのか分からなかったからだ。


「かまわぬ」


 だが、意外にも許可が降りた。


「ありがとうございます。アースレイン侯爵様。ヴィクター様が何を選び、何を掴むのか。それを見守ること、私の覚悟の一部です」


 彼女の声には、一切の迷いがなかった。


 選ばれなかったという事実に、少しも動揺せず、堂々と受け止める。


 それが、彼女の強さだ。


「……わかった」


 それだけを告げ、僕は二人の令嬢の間に立った。


 この選択には、二人の未来を左右する重みがある。


 アリシアは安堵と喜びに微笑み、けれど瞳の奥には焦りがあった。


 フレミアは静かに佇み、一歩先の未来まで見据えているかのように、揺るぎない眼差しを向けていた。


 突然、乾いた音が広間に響いた。


 それは、重く鋭く、刃のように空気を切り裂く一喝だった。


「……ヴィクター、ふざけるな!!」


 その声の主は次兄、ロディス・アースレインだった。


 席から勢いよく立ち上がり、鋭い眼光で僕を睨みつけている。


 その目には怒りの焔が宿っていた。家の名を背負う者としての誇りが、怒りへと変わって燃えているのだ。


「貴様、貴族の婚約をなんだと思っている?」


 低く、だが押し殺せぬ激情が、彼の声に宿っていた。


 広間の空気が一変する。


 雷が落ちたかのように従者たちは一斉に動きを止め、他の令嬢たちも顔を強張らせている。


 父である侯爵も黙して様子を見守っていた。


「選ぶとは、ということだ。迷いなど許されぬ。選ばれた者も、選んだ者も、それが責任を生むということを、貴様は理解していないのか?」


 その言葉に、僕は静かに彼の目を見返す。


「理解している。だからこそ、より深く知るために一ヶ月の猶予を望んだのです。中途半端に選ぶ方が、よほど愚かだと僕は思います」

「言い訳にしか聞こえん!」


 ロディスが足を踏み出す。その一歩に、圧があった。三段階を超える闘気を持つ彼が、本気で怒っているのが分かる。


「貴様のその優柔不断な態度が、ラヴェンデル家にもカテリナ家にも、そしてアースレイン家の名にも泥を塗っているのだと気づけ!」

「兄上、俺は誠実にラヴェルデルを選んだつもりです」

「誠実だと? 女を二人並べて、迷っていると公言することのどこが誠実だ!」


 鋭い叱責グレイスは怒りを押さえながらも、僕の目を見据えたまま、絞るように言った。


「……お前は弱い。心がだ。強さとは、決断する覚悟のことだと、まだ理解できていないのか?」


 その言葉は、深く僕の胸に突き刺さった。


 そして、広間が再び静まり返った。


 アリシアが息を呑み、フレミアの唇が僅かに引き結ばれるのが見える。


 ロディスの叱責は正しい。


 この場で選ばずに先延ばしにした。


 だが、その判断を間違っているとは思っていない。


 この先に僕自身の“真の選択”があると、信じて。


「俺は貴様の性根を認めん」


 その日、屋敷には長兄と皇女の祝福に包まれた。


 だが僕だけは、その祝福の中で、まったく笑うことができなかった。


 この一ヶ月で、僕は真実と向き合わなければならない。


 彼女たちの言葉。想い。未来。


 すべてを知った上で、最後の選択を下す。


 そして、ロディスからは完全に敵意を向けられることになった。


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