《side ヴィクター・アースレイン》
アリシア・ラヴェンデルは、僕の前に立っていた。
純粋な瞳で僕を見つめている。
未来の彼女とは違う。
それを理解しながらも、僕はまだ彼女に対して、感情が動くことはない。
「ヴィクター様……」
アリシアは微笑みながら、一歩、僕へと近づいてきた。
彼女の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめる。
そこには、未来で僕を裏切った冷たい目ではなく、心からの善意と信念が込められていた。
彼女は、小さな声で呟くように言った。
「私は、あなたを救いたいのです」
その言葉に、僕の眉が僅かに動いた。
救いたい。
「ヴィクター様は、ずっと苦しんでいるでしょう?」
彼女は真剣な眼差しで僕を見つめ、手を胸に添えた。
「アースレイン家の中で、認められず、努力を重ねながらも、誰からも支えられずにここまで来られた……と聞いています」
過去の僕を知っているのだろう。
いや、それは当然か、僕が弱かった頃のことは、貴族社会の中でも知られていた。
アースレイン家の落ちこぼれ。アリシアはそれを知ってここに来たのか? だが、それを知っていて、期待を持てない僕にどうして声をかけるんだ?
「私にあなたを支えさせてください」
アリシアは一歩、さらに近づいてくる。
「私は聖女を目指しているのです。人々を導き、救う存在になるために。ヴィクター様のこともお支えしたいのです」
彼女の言葉には迷いがなかった。
「あなたは強くなれます。今以上に、もっと……きっと、あなたは素晴らしい未来を掴むことができるはずです」
未来を信じるように、彼女はそう告げる。
初恋をした時、僕にはアリシアしかいなくて、彼女の言葉が全て僕のために告げられていると思っていた。
昔の僕が聞いたなら、アリシアの言葉に心を揺さぶられていたかもしれない。
だが、今の僕は違う。
彼女の救いという言葉に、未来の記憶が蘇る。
裏切り。
毒。
処刑。
アリシア・ラヴェンデル。
かつての僕にとって、最も美しく、最も慈愛に満ちた存在だった。
それが未来では、僕を地獄に突き落とした張本人。
滑稽だな。
「……君に助けてもらう必要はない」
アリシアの瞳が、一瞬だけ揺れた。
だが、僕は続ける。
「俺はすでにウィルを倒し、アースレイン家の人間として認められた。君の支えはいらない。今も自分で強くなるための努力を続けている」
その言葉に、アリシアの表情が凍りついた。
まるで、想像もしていなかった答えだったのだろう。
彼女は動揺を隠すように、ふっと笑みを浮かべた。
「そ、そんなことありません。ヴィクター様は、まだまだこれからです。私がいれば、もっと強くなれます!」
「必要ない」
バッサリと切り捨てるように言うと、アリシアの微笑みが少しだけ歪んだ。
「でも、私は……」
それでも引き下がらない。
「あなたが強くなっても、私に支えられることで、もっともっと大きくなれるはずなのです」
「……」
僕は無言のまま彼女を見つめる。
彼女は本当に何も知らないのか? 未来では、僕を毒殺しようとした女が、どうしてこうも救いたいなどと言うのか?
彼女が、本当に心からの善意でそう言っているなら、いっそ恐ろしい。
「ヴィクター様、私は⁈」
「ラヴェンデル嬢」
僕は短く彼女の名前ではなく家名を言い放った。
「君は君の道を進めばいい。僕のことは放っておいてくれ」
「……」
アリシアの目が、悲しげに揺れた。
彼女は納得していない。理解すらしていないのだろう。
未来の僕が、どんな地獄を味わったのかを、そして今の想いを。
「でも……」
「君はなんのためにここに来ているんだ? これは婚約者を決めるための場だ」
それ以上、何を言われても意味がない。
僕は彼女に背を向けようとした。
「待って!」
アリシアは僕の腕を掴んだ。
「私は……諦めません」
その声には、確固たる意志が宿っていた。
「あなたがどれだけ強くなったとしても、私はあなたを見守り続けます」
僕の拒絶など、まるで意味をなさないかのように。
「だって、ヴィクター様は昔からずっと、助けを求めていたから」
そう言って、彼女は僕の腕をぎゅっと握ったまま、微笑んだ。
「いつか、あなたが本当に助けを求めた時、私はそばにいます」
僕は彼女の言葉に、何も返さなかった。
何を言っても、彼女は引かないだろう。
今の彼女は、本気で僕を救いたいと思っているのだから。
僕は黙って腕を振りほどき、その場を離れた。
アリシアは、じっと僕の背中を見つめていた。
(……未来が変わっているのか?)
未来のアリシアは、僕を貶め、毒を盛り、魔族と手を組んだ。
だが、今の彼女は純粋なままだ。
(まだ、何かを隠しているのか?)
彼女の言葉が、記憶にこびりつく。
「あなたが本当に助けを求めた時、私はそばにいます」
未来で、僕は彼女に救いを求めたことなど一度もなかった。
むしろ、彼女こそが僕の地獄を生み出した張本人だったのだから。
なのに。今の彼女は、救いたいと願っている。
それが、偽りなのか。本心なのか。
その答えを知るために、僕はこの世界に戻ってきたのかもしれない。
だが、一つだけ確かなことがある。
僕は、もう誰の助けも必要としない。