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第26話

《side ヴィクター・アースレイン》


 アリシア・ラヴェンデルは、僕の前に立っていた。


 純粋な瞳で僕を見つめている。


 未来の彼女とは違う。


 それを理解しながらも、僕はまだ彼女に対して、感情が動くことはない。


「ヴィクター様……」


 アリシアは微笑みながら、一歩、僕へと近づいてきた。


 彼女の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめる。


 そこには、未来で僕を裏切った冷たい目ではなく、心からの善意と信念が込められていた。


 彼女は、小さな声で呟くように言った。


「私は、あなたを救いたいのです」


 その言葉に、僕の眉が僅かに動いた。


 救いたい。


「ヴィクター様は、ずっと苦しんでいるでしょう?」


 彼女は真剣な眼差しで僕を見つめ、手を胸に添えた。


「アースレイン家の中で、認められず、努力を重ねながらも、誰からも支えられずにここまで来られた……と聞いています」


 過去の僕を知っているのだろう。


 いや、それは当然か、僕が弱かった頃のことは、貴族社会の中でも知られていた。


 アースレイン家の落ちこぼれ。アリシアはそれを知ってここに来たのか? だが、それを知っていて、期待を持てない僕にどうして声をかけるんだ?


「私にあなたを支えさせてください」


 アリシアは一歩、さらに近づいてくる。


「私は聖女を目指しているのです。人々を導き、救う存在になるために。ヴィクター様のこともお支えしたいのです」


 彼女の言葉には迷いがなかった。


「あなたは強くなれます。今以上に、もっと……きっと、あなたは素晴らしい未来を掴むことができるはずです」


 未来を信じるように、彼女はそう告げる。


 初恋をした時、僕にはアリシアしかいなくて、彼女の言葉が全て僕のために告げられていると思っていた。


 昔の僕が聞いたなら、アリシアの言葉に心を揺さぶられていたかもしれない。


 だが、今の僕は違う。


 彼女の救いという言葉に、未来の記憶が蘇る。


 裏切り。


 毒。


 処刑。


 アリシア・ラヴェンデル。


 かつての僕にとって、最も美しく、最も慈愛に満ちた存在だった。


 それが未来では、僕を地獄に突き落とした張本人。


 滑稽だな。


「……君に助けてもらう必要はない」


 アリシアの瞳が、一瞬だけ揺れた。


 だが、僕は続ける。


「俺はすでにウィルを倒し、アースレイン家の人間として認められた。君の支えはいらない。今も自分で強くなるための努力を続けている」


 その言葉に、アリシアの表情が凍りついた。


 まるで、想像もしていなかった答えだったのだろう。


 彼女は動揺を隠すように、ふっと笑みを浮かべた。


「そ、そんなことありません。ヴィクター様は、まだまだこれからです。私がいれば、もっと強くなれます!」

「必要ない」


 バッサリと切り捨てるように言うと、アリシアの微笑みが少しだけ歪んだ。


「でも、私は……」


 それでも引き下がらない。


「あなたが強くなっても、私に支えられることで、もっともっと大きくなれるはずなのです」

「……」


 僕は無言のまま彼女を見つめる。


 彼女は本当に何も知らないのか? 未来では、僕を毒殺しようとした女が、どうしてこうも救いたいなどと言うのか?


 彼女が、本当に心からの善意でそう言っているなら、いっそ恐ろしい。


「ヴィクター様、私は⁈」

「ラヴェンデル嬢」


 僕は短く彼女の名前ではなく家名を言い放った。


「君は君の道を進めばいい。僕のことは放っておいてくれ」

「……」


 アリシアの目が、悲しげに揺れた。


 彼女は納得していない。理解すらしていないのだろう。


 未来の僕が、どんな地獄を味わったのかを、そして今の想いを。


「でも……」

「君はなんのためにここに来ているんだ? これは婚約者を決めるための場だ」


 それ以上、何を言われても意味がない。


 僕は彼女に背を向けようとした。


「待って!」


 アリシアは僕の腕を掴んだ。


「私は……諦めません」


 その声には、確固たる意志が宿っていた。


「あなたがどれだけ強くなったとしても、私はあなたを見守り続けます」


 僕の拒絶など、まるで意味をなさないかのように。


「だって、ヴィクター様は昔からずっと、助けを求めていたから」


 そう言って、彼女は僕の腕をぎゅっと握ったまま、微笑んだ。


「いつか、あなたが本当に助けを求めた時、私はそばにいます」


 僕は彼女の言葉に、何も返さなかった。


 何を言っても、彼女は引かないだろう。


 今の彼女は、本気で僕を救いたいと思っているのだから。


 僕は黙って腕を振りほどき、その場を離れた。


 アリシアは、じっと僕の背中を見つめていた。


(……未来が変わっているのか?)


 未来のアリシアは、僕を貶め、毒を盛り、魔族と手を組んだ。


 だが、今の彼女は純粋なままだ。


(まだ、何かを隠しているのか?)


 彼女の言葉が、記憶にこびりつく。


「あなたが本当に助けを求めた時、私はそばにいます」


 未来で、僕は彼女に救いを求めたことなど一度もなかった。


 むしろ、彼女こそが僕の地獄を生み出した張本人だったのだから。


 なのに。今の彼女は、救いたいと願っている。


 それが、偽りなのか。本心なのか。


 その答えを知るために、僕はこの世界に戻ってきたのかもしれない。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 僕は、もう誰の助けも必要としない。

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