目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第8話

《sideリュシア》


 目覚めた瞬間、違和感に襲われた。


 欠けている……。何かが、確実に。けれど、それが何なのかはわからない。ただ……確かに私は何か大切なものを失ってしまった気がする。


「ここはどこ?」


 木々の間から光が差し込む静かな森。


 私はそこに横たわっていた。まるで迷子のように。


「……どうして、私の体はこんに小さいの?」


 掌を広げて、自分の体を見つめる。細くて、柔らかくて……あどけない子供の手。


 違う、こんなの私じゃない。


 私の体はもっと大きく、しなやかで……そう、ずっと強かったはずだ。


 けれど、今は何が起こったのか、思い出そうとしても、頭の奥に霞がかかったように記憶がぼやけている。


 だけど、確かなことが一つだけある。


 私は魔族。


 負の感情を糧にする、特別な存在。


 そして……グゥ〜! お腹が鳴って、力が入らない


「……ご飯、お腹すいた」


 情けないけれど、まずは食事が必要みたいね。


 でも、どうすればいいのかしら? ううん。私は、知っているわ。


「アハっ! 不思議。知らないはずなのに、知っているわ」


 それだけじゃない。私が何を求め、何を糧にして生きているのかも。


「負の感情……絶望……」


 それが私たち魔族のご飯。


 最も美味しいのは、幸福から地獄へと突き落とされた絶望の瞬間。


 全てを失った者の悲しみは、甘美な悲鳴。


 極上の恐怖と絶望が渦巻く。


「……食べたい」


 森の泉のそばで、冷たい水面に映る自分をじっと見つめる。


 白く細い指先が、水面をかすかに揺らす。こんな幼い姿になってしまうなんて、皮肉なものね。


 これも全部、私が「弱い」からなのだろうな。


 力を失ってしまった。その原因はわからないけど、魔族は負の感情を糧にして生きている。たくさんご飯を食べて、強くならなくちゃ。


 負の感情は、絶望が強ければ強いほどに、美味しい。


 特に最高の喜びから、一瞬で奈落の底に叩き落とされた時の絶望。


 あの味はたまらない。


 ああ、こんなことは覚えているのに、私は何を忘れてしまったのだろう。


「不思議な魔力」


 森の奥に進んで行くと大きなお屋敷が見えた。その中庭で一人で剣を振るう少年。


 とても、芳醇な魔力の香り。


 これは……絶望の匂い。


 たっぷりと熟成された、どす黒い感情。


 憎しみ、怒り、後悔、疑念、復讐心……。


「アハっ! すごい! 絶望の塊みたい。暗くて、仄暗くて、最高! まるで奈落の底から這い上がってきたみたい! 彼を食べられたら、私は凄い力が取り戻せる!」


 私は、彼を食べるためにはどうすれば良いのか考えた。


 しばらく眺めていると、彼は剣の訓練をしているのね。


 何日も、何日も、観察を続ける。


 お腹が空いても、死ぬことはない。


 魔族には寿命がない。生きていれば、永遠に存在し続けられる。


 ただ弱く力を発揮することもままならない。


 今の弱い私は、老いることも、死ぬこともない。


「アハっ! 彼のことわかっちゃったかも!」


 アースレイン侯爵家の子息、ヴィクター・アースレイン。


 ずっと落ちこぼれと蔑まれ、拷問され、それても生き続けて力を手に入れた。


 あなたは絶望を知っている。そして、成り上がるために希望も持っている。


 いいわ。いいわよ。あなたが希望として倒したあの男を使って、絶望に落としてあげようかしら? それとも従者を操って絶望にする?


 この子を壊したら、どんな味がするのかしら?


「ねぇ〜どうすれば、もっと絶望してくれるの?」


 どんな手を使ったって、私が殺されることはない。


 魔族を殺すためには、特別な武器が必要になる。


 でも、そんなものを作れるのは、ほんの一部の人間だけ。


 ほとんどの人間は、私たちを傷つけることさえできない。だって、私たちは彼らよりずっと強いから。


 だけど、私たち魔族が最も恐れるのは……同じ魔族だけ。


 お互いを喰らい合うことができるから、私もこれまでに何体か喰らってきた。


 そして、強い力を手に入れたはずなのに……。


「力を取り戻すためにも、濃厚で芳醇な負の感情を含んだ魔力を食べないとね」


 敗者は存在そのものが消えてしまう。力を持たない魔族は、ただの餌に過ぎない。だから、私は他の魔族を喰らって、力を取り戻さなきゃならない。


「今の私は……弱いから、魔族を倒すこともできないけどね」


 私は自分の手を見つめる。白く細い、人間の少女のような手。それが何よりも、今の私がどれほど弱いかを物語っている。


「……アハっ!」


 悔しさが胸を締め付ける。かつての私は、もっと強かった。力を持つ魔族としての誇りを胸に、人間たちを絶望の淵へ追い込んできた。


 でも今は、この有様。


「だから、あなたを手に入れるわね」


 そう思って私はヴィクター・アースレインを襲撃した。


 結果は、まさかの私が服従させられるなんて! 力を失い、小さな体に閉じ込められ、人間の従者に成り下がるなんて屈辱よ。


 だけど、ヴィクター・アークレイズは奇妙な人間。


 彼の中には、何度掬っても味わえないほど深くて、どうしようもない負の感情が渦巻いている。


 側にいるだけで、私の胸も、お腹も満たされていく。


 ふふ、不思議、とても不思議だけど、あれほど貪欲に負の感情を蓄積できるヴィクターが私のご主人様になった。


 これは幸福なことだわ。今の私にとって最高の糧になる。


 怒り、絶望、復讐心、ドロドロとした憎悪の感情が、ヴィクターの中で生まれては私が掬い上げてあげるの。


 それでも消えない強い意志。こんな感情を持った人間は今までに出会ったことがない。


「ふふ……あなたは最高の料理よ、ご主人様」


 私は静かに微笑む。


 どれほど口にしても飽きないほどの深い味わい。それでも、私は彼をいつか絶望に落としたい。


 彼が抱える絶望の全てを飲み干して、彼に希望を与えて、その上で、その希望を奪って絶望に叩き込んであげるの。


「それが私の魔族としての流儀よ」


 さて、魔族とは何か? そう聞かれるとしたら、私はこう答えるわ。


「私たちは、ただ生きているだけよ。人間の負の感情を糧にしながら、ひっそりとね」


 でも、そんな単純な話じゃない。


 人間は私たちを憎む。私たちを滅ぼそうとする。だって、私たちが与えるのは絶望だから。でも、どうかしら? 喜びから奈落へ落ちる快感。


 その瞬間に生まれる感情の深み。


 それを生み出す私たちは、ただの悪だと言えるの?


 だって、喜びを掴むまでの間は、私たちの力を利用していたのは人間たちの方なのに、最後の美味しいところをもらって何がいけないの? 報酬をもらうのは人間も同じでしょ。


 それにしても、ご主人様の負の感情は美味しいわね。


 もっともっと熟成させて、最高の瞬間に突き落としてあげたい。


 だけど……私は手に巻かれた鎖を見つめる。


 服従の証……。


 ご主人様に逆らうことはできない。

 それでも、私は構わないわ。

 だって、彼の絶望を味わえるのは私だけなんだから。


 私は彼の背中を見つめながら、静かに誓う。力を取り戻すために、この状況を利用してあげる。


 そして、その先で何をするかは、私の思うがままよね? ご主人様には確かに逆らえない。


 だけど、あなた以外の人に何をしても構わない。私はあなた以外には従わない。


「ふふ……さあ、ご主人様。この世界で何が待っているのかしら? 一緒に確かめましょう?」


 そう言って、私は自慢の瞳を輝かせながら微笑んだ。


 これからご主人様と過ごす日々のことを思えば、子宮が熱くなる。


 そうそう、私たち魔族も、子供を作ることはできるのよ。


 ご主人様との間に子供を作ってもいいわね。


 彼を私に縛り付けて、希望を与える。


 そして、その先にある絶望を味わってもらえる。


「あぁ〜未来ってどうしてこんなにも明るいのかしら?!」


 私はこれほどの幸福を与えてくれるなら……ご主人様を愛してしまうわ!

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?