《sideリュシア》
目覚めた瞬間、違和感に襲われた。
欠けている……。何かが、確実に。けれど、それが何なのかはわからない。ただ……確かに私は何か大切なものを失ってしまった気がする。
「ここはどこ?」
木々の間から光が差し込む静かな森。
私はそこに横たわっていた。まるで迷子のように。
「……どうして、私の体はこんに小さいの?」
掌を広げて、自分の体を見つめる。細くて、柔らかくて……あどけない子供の手。
違う、こんなの私じゃない。
私の体はもっと大きく、しなやかで……そう、ずっと強かったはずだ。
けれど、今は何が起こったのか、思い出そうとしても、頭の奥に霞がかかったように記憶がぼやけている。
だけど、確かなことが一つだけある。
私は魔族。
負の感情を糧にする、特別な存在。
そして……グゥ〜! お腹が鳴って、力が入らない
「……ご飯、お腹すいた」
情けないけれど、まずは食事が必要みたいね。
でも、どうすればいいのかしら? ううん。私は、知っているわ。
「アハっ! 不思議。知らないはずなのに、知っているわ」
それだけじゃない。私が何を求め、何を糧にして生きているのかも。
「負の感情……絶望……」
それが私たち魔族のご飯。
最も美味しいのは、幸福から地獄へと突き落とされた絶望の瞬間。
全てを失った者の悲しみは、甘美な悲鳴。
極上の恐怖と絶望が渦巻く。
「……食べたい」
森の泉のそばで、冷たい水面に映る自分をじっと見つめる。
白く細い指先が、水面をかすかに揺らす。こんな幼い姿になってしまうなんて、皮肉なものね。
これも全部、私が「弱い」からなのだろうな。
力を失ってしまった。その原因はわからないけど、魔族は負の感情を糧にして生きている。たくさんご飯を食べて、強くならなくちゃ。
負の感情は、絶望が強ければ強いほどに、美味しい。
特に最高の喜びから、一瞬で奈落の底に叩き落とされた時の絶望。
あの味はたまらない。
ああ、こんなことは覚えているのに、私は何を忘れてしまったのだろう。
「不思議な魔力」
森の奥に進んで行くと大きなお屋敷が見えた。その中庭で一人で剣を振るう少年。
とても、芳醇な魔力の香り。
これは……絶望の匂い。
たっぷりと熟成された、どす黒い感情。
憎しみ、怒り、後悔、疑念、復讐心……。
「アハっ! すごい! 絶望の塊みたい。暗くて、仄暗くて、最高! まるで奈落の底から這い上がってきたみたい! 彼を食べられたら、私は凄い力が取り戻せる!」
私は、彼を食べるためにはどうすれば良いのか考えた。
しばらく眺めていると、彼は剣の訓練をしているのね。
何日も、何日も、観察を続ける。
お腹が空いても、死ぬことはない。
魔族には寿命がない。生きていれば、永遠に存在し続けられる。
ただ弱く力を発揮することもままならない。
今の弱い私は、老いることも、死ぬこともない。
「アハっ! 彼のことわかっちゃったかも!」
アースレイン侯爵家の子息、ヴィクター・アースレイン。
ずっと落ちこぼれと蔑まれ、拷問され、それても生き続けて力を手に入れた。
あなたは絶望を知っている。そして、成り上がるために希望も持っている。
いいわ。いいわよ。あなたが希望として倒したあの男を使って、絶望に落としてあげようかしら? それとも従者を操って絶望にする?
この子を壊したら、どんな味がするのかしら?
「ねぇ〜どうすれば、もっと絶望してくれるの?」
どんな手を使ったって、私が殺されることはない。
魔族を殺すためには、特別な武器が必要になる。
でも、そんなものを作れるのは、ほんの一部の人間だけ。
ほとんどの人間は、私たちを傷つけることさえできない。だって、私たちは彼らよりずっと強いから。
だけど、私たち魔族が最も恐れるのは……同じ魔族だけ。
お互いを喰らい合うことができるから、私もこれまでに何体か喰らってきた。
そして、強い力を手に入れたはずなのに……。
「力を取り戻すためにも、濃厚で芳醇な負の感情を含んだ魔力を食べないとね」
敗者は存在そのものが消えてしまう。力を持たない魔族は、ただの餌に過ぎない。だから、私は他の魔族を喰らって、力を取り戻さなきゃならない。
「今の私は……弱いから、魔族を倒すこともできないけどね」
私は自分の手を見つめる。白く細い、人間の少女のような手。それが何よりも、今の私がどれほど弱いかを物語っている。
「……アハっ!」
悔しさが胸を締め付ける。かつての私は、もっと強かった。力を持つ魔族としての誇りを胸に、人間たちを絶望の淵へ追い込んできた。
でも今は、この有様。
「だから、あなたを手に入れるわね」
そう思って私はヴィクター・アースレインを襲撃した。
結果は、まさかの私が服従させられるなんて! 力を失い、小さな体に閉じ込められ、人間の従者に成り下がるなんて屈辱よ。
だけど、ヴィクター・アークレイズは奇妙な人間。
彼の中には、何度掬っても味わえないほど深くて、どうしようもない負の感情が渦巻いている。
側にいるだけで、私の胸も、お腹も満たされていく。
ふふ、不思議、とても不思議だけど、あれほど貪欲に負の感情を蓄積できるヴィクターが私のご主人様になった。
これは幸福なことだわ。今の私にとって最高の糧になる。
怒り、絶望、復讐心、ドロドロとした憎悪の感情が、ヴィクターの中で生まれては私が掬い上げてあげるの。
それでも消えない強い意志。こんな感情を持った人間は今までに出会ったことがない。
「ふふ……あなたは最高の料理よ、ご主人様」
私は静かに微笑む。
どれほど口にしても飽きないほどの深い味わい。それでも、私は彼をいつか絶望に落としたい。
彼が抱える絶望の全てを飲み干して、彼に希望を与えて、その上で、その希望を奪って絶望に叩き込んであげるの。
「それが私の魔族としての流儀よ」
さて、魔族とは何か? そう聞かれるとしたら、私はこう答えるわ。
「私たちは、ただ生きているだけよ。人間の負の感情を糧にしながら、ひっそりとね」
でも、そんな単純な話じゃない。
人間は私たちを憎む。私たちを滅ぼそうとする。だって、私たちが与えるのは絶望だから。でも、どうかしら? 喜びから奈落へ落ちる快感。
その瞬間に生まれる感情の深み。
それを生み出す私たちは、ただの悪だと言えるの?
だって、喜びを掴むまでの間は、私たちの力を利用していたのは人間たちの方なのに、最後の美味しいところをもらって何がいけないの? 報酬をもらうのは人間も同じでしょ。
それにしても、ご主人様の負の感情は美味しいわね。
もっともっと熟成させて、最高の瞬間に突き落としてあげたい。
だけど……私は手に巻かれた鎖を見つめる。
服従の証……。
ご主人様に逆らうことはできない。
それでも、私は構わないわ。
だって、彼の絶望を味わえるのは私だけなんだから。
私は彼の背中を見つめながら、静かに誓う。力を取り戻すために、この状況を利用してあげる。
そして、その先で何をするかは、私の思うがままよね? ご主人様には確かに逆らえない。
だけど、あなた以外の人に何をしても構わない。私はあなた以外には従わない。
「ふふ……さあ、ご主人様。この世界で何が待っているのかしら? 一緒に確かめましょう?」
そう言って、私は自慢の瞳を輝かせながら微笑んだ。
これからご主人様と過ごす日々のことを思えば、子宮が熱くなる。
そうそう、私たち魔族も、子供を作ることはできるのよ。
ご主人様との間に子供を作ってもいいわね。
彼を私に縛り付けて、希望を与える。
そして、その先にある絶望を味わってもらえる。
「あぁ〜未来ってどうしてこんなにも明るいのかしら?!」
私はこれほどの幸福を与えてくれるなら……ご主人様を愛してしまうわ!