基礎的な体の動きと、闘気を操ることが自分の満足いくレベルに達したところで、僕は訓練に変化をつけることにした。
領内にある森へと足を運んだ。
アースレイン侯爵家の領地内であれば、どこであっても体を鍛えるための訓練場所として使って良いことになっている。
森の中は薄暗く、静寂が漂っていた。
魔物の気配を感じながら、木々の隙間から差し込む日差しが、ぽつぽつと光の輪を作り出している。
訓練と食事の影響で、背丈が少しだけ伸びた。
見える景色が変わり、歩く速度も速く感じる。
奥へ進むと、小さな泉が見えてくる。その透明な水面は静かで、わずかに風が吹くたびにさざ波が立つ。
ここなら集中して修行ができそうだ。
「ドイル、ここにしよう」
「はい!」
最近は、体が少しずつ筋力をついた。子供の体に自分の感覚が馴染みつつある。食事とオーラの循環もしていることで、生命力は格段に強くなった。
無属性の魔力も集まりつつある。
「始めるか」
「はっ!」
剣を抜こうとした、その時だった。
「アハっ! 美味しそうな匂いがすると思って来てみれば……へぇ〜、あなたね」
気配に気づけなかっただと?!
「誰だ?!」
「ふふ、君の怯えている顔って素敵ね。いいわ! とても芳醇で好ましい香りよ。さっきあった子はドロドロでヘドロのような匂いだったから、ちょっと好みじゃなかったのよ」
「ヴィクター様! あそこです!
ドイルの声に視線を向ける。そこに立っていたのは一人の少女だった。黒いローブを纏い、長い白髪を風に揺らしていた。
どこかで見たような気がする。
金色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
見た目は少女のはずなのに、どこか妖艶な微笑みが様になっていて。真っ白い肌と美しい容姿は、人を惹きつけるような不思議な魅力を放っていた。
「……誰だ、お前は?」
剣に手をかけながら、静かに問いかける。
彼女は肩をすくめ、小馬鹿にしたような口調で答えた。
「アハっ! 名乗るほどの者でもないけれど……そうね、せっかくだから教えてあげるわ。私はリュシアよ。この森を通っていたら、美味しそうな香りがしたから来てみたの」
「美味しそうな香り?」
リュシアと名乗った少女は、心から楽しそうに笑っている。
だが、それがこんな魔物が現れる森の中という場所でなければ、美しいと感じるだけだが、異質さを感じてしまう。
「お前は何者だ?」
「ふふ、良い目をするのね。あなただって普通の人間じゃないじゃない」
「普通の人間ではい?」
「あら? わかっていないの? ふふ、面白い。負の感情があなたの体を渦巻いているわよ。アハっ! なんて美味しそうなのかしら?」
少女の金色の瞳が妖しく光り、にじり寄ってくる。
「とても特別で、上質で、濃厚で、芳醇な香り」
「……?!」
不審を抱きつつも、剣を抜こうとする手に力を込める。
だが、次の瞬間、リュシアが両手を広げた。
「さあ、特別なあなたを手に入れましょう。その前に余興からよね。食事には前菜が必要だもの!」
突如として、森の静寂を切り裂くように影が跳びかかってきた。
「ヴィクター様!!」
ドイルの声が響く。だが、僕はその声を聞くよりも早く、背後から迫る殺気を感じていた。
ガキィンッ! 鋭い金属音が鳴る。
目の前には、剣を握ったウイルがいた。
「ヴィクター……おまえェェェがあああ!!」
ウイルの顔は汗と唾でぐしゃぐしゃになり、血走った目は怒りと憎しみに満ちている。
異様な気配を放つ彼の体は、以前のウイルとはまるで別物だった。
「くくっ、いいじゃない。負の感情が爆発してるわ。だけど好みじゃないのよね」
リュシアが笑い声を上げる。
「ねぇ、彼の負の感情は復讐心よ。あなたに対して怒りが溜まっていたようね。とても甘美で濃厚だわ。だから、ちょっとだけ背中を押してあげたのよ」
金色の瞳を妖しく輝かせながら、彼女は僕とウイルを交互に見つめる。
「こいつを操っているのはお前か?」
「正解! だけど、操っているなんて陳腐ね」
ウイルの体はすでに限界を超えているように見える。
「ふふ、彼は、あなたを恨んでいたのよ。でも、普通なら理性が邪魔して復讐することもできないようだったから、背中を押してあげたの」
ウイルは臆病で狡猾な卑怯者であり、何年も恨みを忘れない蛇みたいな男だ。
だからこそ、こんなガムシャラに命を削るような戦いはしない。
「私がその理性をほんのちょっとだけ壊してあげただけ」
リュシアはクスクスと笑いながら、指を絡めるような仕草をする。
「魔法でここまで人が操れるものか?」
「ふふ、どうかしら?」
ウイルの様子を見ると、異常なほどに力がみなぎっていることが分かる。
呼吸は荒く、血管は浮き出ており、目が充血している。剣を振るう筋肉の動きも、制御を失った野獣のようだった。
「ヴィクター様……これは……!」
ドイルが一歩引きながら、驚愕の表情を浮かべる。
ウイルの体はすでに限界を超えていた。
普通なら、自分の体を守るために脳がブレーキをかける。しかし、ウイルはその制御を完全に失っていた。
体がボロボロになろうが、手足が折れようが、全身から血が吹き出していうよウィルは止まらない。
「ヴィクターァァァァ!!」
絶叫と共に、ウイルが地面を蹴り、一瞬で間合いを詰めた。
ガキィン! 激しく鍔迫りをしているが、剣を握る手が血で染まっている。
指の骨が折れているのか、不自然な角度になっていた。それでも、ウイルは迷いなく剣を振るった。
「ッ……!!」
絶叫と共に、ウイルが地面を蹴り、一瞬僕は剣を振りかぶり、受け止める。
ガキィン!! 衝撃で手が痺れる。単純な力だけなら、以前のウイルとは比べものにならないほど強くなっている。
だが、それだけだ。
「ドイル、下がっていろ」
「ヴィクター様……!? しかし……!」
「こんなもの、戦いではない。ただの処理だ」
僕は冷たく言い放ち、剣を振るう。ウイルの動きは確かに速い。力も強い。
だが、それは理性のない獣が暴走しているだけに過ぎない。技もなければ、隙だらけだ。
「ウイル、お前はすでに死んでいる」
一瞬の静寂。
次の瞬間、僕の剣がウイルの首を両断した。
シュバァァッ!!
鮮血が噴き出し、首が宙を舞う。
「がっ……!?」
ウイルの目が驚愕に見開かれたまま、地面に転がる。胴体も、一歩前に進もうとしたまま崩れ落ちた。
「……つまらんな」
剣を振り払い、血を落とす。ウイルの死体は痙攣しながら、やがて動かなくなった。
「ハハハハハッ!!」
その瞬間、リュシアが爆笑する。
「やっぱりあなた……最高よ!!」
彼女の瞳が妖しく輝き、僕を見つめる。
「理性を失った兄を、ためらいもなく殺せるなんて……本当に素晴らしいわ。あなたの負の感情が、これほどまでに甘美だなんて……たまらない!」
彼女はうっとりとした表情を浮かべながら、ゆっくりと手を掲げる。
「そんなあなたに、さらに相応しい贈り物をあげるわ」
不気味な笑みを浮かべながら、指を鳴らした。赤黒い魔法陣が宙に浮かび、僕の足元に広がる。
リュシアの瞳が怪しく光り、呪詠が響く。
「服従の魔術よ。彼を私に従わせなさい!!」
僕はリュシアから放たれた魔術を受けた。