空はまだ薄暗く、陽が昇りきる前の冷たい空気が漂っている。
無機質で、無感動、精力的に動いたとしても、あの断罪された記憶が消えるわけではない。
淡々と、そして、粛々と受け入れたからこそ、過去という現実があるように思える。
僕は目を覚まし、ベッドから体を起こして早朝の鍛錬に向かう。
未来も、過去も、現在も、人が習慣化させたことは変わらない。
目を覚まして、剣を振るう。それが体に刻み込まれた生活のリズムを整える。
しかし、部屋の扉を開けた瞬間、目の前には跪く男がいた。
「ヴィクター様、おはようございます」
それは昨日、血の契約を交わしたドイルだった。
命を捧げて、僕に忠誠を誓った彼は、今までとは別人のような態度をとってきた。
「どういうつもりだ?」
昨日までのドイルは、どこか僕に対してどこか怯え、遠慮を抱きながらも、必要最低限の礼儀を守る従者だった。
だが、今目の前にいるドイルは、異様なほどの忠誠心を感じさせる緊張感を放つ空気を纏っていた。
「ヴィクター様のお目覚めに合わせ、すぐにお仕えできるように待機しておりました。毎日、朝の訓練を行なっておられることには気づいておりましたので」
低く、恭しい声。それだけならまだしも、ドイルの目には異様なまでの敬意と、何かを崇拝するような感情が宿っていた。
面倒に感じながらも、従者の行動として間違っているわけじゃない。
従者は常に主人より早く起きて、主人よりも後に寝る。
そんな言葉を発した者がいたが、それを実際に行う奴がいるのだと、ご苦労なことだ。
「僕の行動を監視するつもりか?」
「とんでもございません! ヴィクター様の御意向に、いつでも応えられるよう当然の務めとして控えておりました!」
ドイルは真剣な顔でそう言い切った。その表情には一切の迷いがない。
血の契約は、性格を変えたりする効果はない。裏切りを許さない誓約なだけだ。
だが、それだけでここまで態度が変わるものなのか? 元々のドイルがこういう性格なのかわからないが、僕は思わず目尻を抑えた。
様々なことを諦めてきたが、忠誠心を強く向けられることは戸惑う。
「……朝から鬱陶しい。邪魔はするなよ」
「はっ!」
ドイルは深く頭を下げ、僕が歩くたびに距離を一定に保ち、後ろをついてくる。
影のように、僕の一挙一動を見逃さぬよう従うその姿は、盲信に近い。
王国を打倒する際に、教会の盲信者と戦ったことがあるが、奴らは痛みなど無視して、致命傷を受けた時にも攻撃を仕掛けてくるから厄介な相手だった。
それに近い瞳をドイルは感じさせる。
中庭に向かっている途中、アマンダと他のメイドが掃除をしているのが見えた。
アマンダは僕の専属になったことで、屋敷のメイドとして位を上げることができた。最近は僕を拷問していたのが嘘のように機嫌がいい。
「ヴィクター様。おはようございます!」
僕に対して、怯えとも違う恍惚とした表情を向けてくるのは、ちょっと理解できない。酷い扱いをしたはずなのに、それを当然だと受け入れている節がある。
「……おはようございます」
アマンダの隣で掃除していたメイドが、僕に対してどのような態度で接すればいいのか戸惑っている様子だ。
メイドの態度をいちいち気にするつもりはない。
だが、そんなメイドの態度に対して、威圧を含んだドイルが睨みつけた。
「貴様、ヴィクター様への挨拶がなっていないのではないか?」
ドイルの低い声に、メイドは一瞬怯えた表情を浮かべる。
「え……あの、わ、私はただ……」
「ヴィクター様は、侯爵様に認められた子息である。侯爵家の子息に対して、貴様は挨拶も碌にできないメイドなのか? 敬意を持ってないないと?」
「いえ! おはようございます! ヴィクター様! 先ほどは失礼しました!」
ドイルの発言は、屋敷の響くほどの大きさがあり、廊下の向こうにいた者たちも聞いている。私としては気恥ずかしくはあるが、これは裏切り行為ではない。
「ヴィクター様はこの家の御子息であり、貴族であられるお方だ。礼儀を忘れるな」
「はっ、はい!」
メイドは顔を青ざめて震えている。だが、他の者がこれで余計なことをして来ないなら、十分に効果があったのだろう。
「ドイル、うるさい」
僕が静かに言うと、ドイルはピタリと動きを止めた。
「……申し訳ありません、ヴィクター様」
叱られた犬のようにシュンとなった態度を取るドイルを放置して、僕は中庭を目指した。
僕が朝の訓練を始めると、ドイルも同じ訓練を行い始めた。
「どうして同じ訓練をしている?」
「ヴィクター様のお相手をするためです」
「相手?」
「はい! 戦うことは常に相手が必要です。私が弱くてはヴィクター様の相手は務まりません。ですから、一緒に鍛えていただき、少しでもお役に立てるようになりたいのです!」
「好きにしろ」
相手をするのも面倒になって、僕に自分のペースで訓練を始めた。
ドイルは完全な忠誠を誓ったことで、僕の存在そのものを崇拝するようになっているようだ。ただの従者ではない。もはや僕のためなら何でもする狂信者に近い。
だが試しに、僕は軽く問いかけてみた。
「もし僕を侮辱する者がいたら、どうする?」
訓練の合間に問いかけるとドイルは即答した。
「そいつを殺します!」
躊躇いもなく言い放つその姿に、僕はわずかに眉を寄せた。
「……殺すか?」
「必要であれば」
ドイルは淡々とした口調で答える。
僕の力に完全に屈し、尊敬を超えた信仰の域に達している。
ドイルは、もはや僕の命令が絶対であり、僕に逆らう者は排除すべき存在だと信じ込んでいるようだ。
だが、これは悪いことばかりではない。
忠誠心の強い従者は、使い方次第で大きな戦力になる。僕に刃を向ける者がいれば、ドイルは容赦なくそれを叩き潰すだろう。
問題は、彼が独断で動かないように抑えることだ。
「ドイル、僕の許可なく誰かを傷つけることは許さない」
ドイルは一瞬考えた後、深く頷いた。
「……承知しました、ヴィクター様」
だが、その瞳の奥に宿る忠誠の炎は、未だ燃え続けている。
盲信者は時に強い力を発揮するが、扱いを間違えるととんでもないことになってしまう。
だが、僕としてドイルというサンドバックを手に入れたことで、これまでできなかった打ち合いができるようになった。