フランソワ・カロンは──眠れなかった。
浅草付近にある大名屋敷の一角にしつらえられた阿蘭陀宿にチェックイン(あえてそう云おう)したものの、気持ちはまったく落ち着かない。
あの火喰鳥相手に「ふかふかの布団で体を休める」などと云ったが、それは嘘だ。
「うまくやってくれるのだろうか、まったく……」
密命を抱えた身に睡魔など、訪れるわけがない。
それから、服の中に手を突っ込み、胸元の
然し、だからと云って神に祈るわけではない。
ただそうすることが、カロンの気持ちを落ち着かせるのに効果的だと云うだけだった。
おまえは切支丹ではないのか、と尋ねられると、だからカロンはいつも曖昧な受け答えをしてきた。祈りは毎晩唱える、とか、念珠は握りしめて眠る、とか。それは表面的には事実であったし、嘘を云っているわけではない。
然し──信仰があるのかと問われれば、よく分からなかった。
フランソワ・カロンの生い立ちは複雑だ。
どれくらい複雑かといえば、ピンク・フロイドの「マネー」の構成くらい複雑で、したがってフランソワ・カロンの半生のテーマソングは結果的にピンク・フロイドということになる。
無論、その時代にピンク・フロイドがいればという仮定の話にすぎないが。
両親はフランスのユグノー派の信徒で、宗教的迫害を逃れるために夫婦は阿蘭陀に向かったのだと聞いている。
幼い頃、フランソワは──ここではフランソワと呼ぼう──このユグノー派の敬虔な教えをかなり押し付けられて育った。
──フランソワ、すべての苦しみを受け入れなさい。すべては神の御心が決めたこと。
母はよくフランソワにそう云い聞かせたものだった。家族は貧困にあえいでいて、つねに経済的な蔑みの眼差しを周囲から向けられてきた。
世の中は金、金、金だ。
その愚かな原理を誤魔化すために、宗教があるのではないか、とさえフランソワには思えた。苦しみを生み出しているのは、金のなさだ。
それをただ受け入れる? なぜ?
結果的に、フランソワは──苦しみの一切を拒絶する道を選んだ。
きっかけは学校に通い始めてすぐのことだった。
──女のくせに俺に基督教学の試験で勝とうなんてふざけんなよ。
学校の同級生がそう云ってフランソワを突き飛ばした。
フランソワはその少年をキッと睨んだ。勉学に励んだのは、出世をしたいがためだった。もう貧乏にはうんざりしていた。金について患わずに生きるためにも、金は必要だ。そのために勉学の闘いはあるというのに、この少年はそれをまるで理解していなかった。
そして、家に帰ると、一人部屋でうずくまり、母の言葉を思い返しながら、苦しみを受け入れるなんて御免だ、と考えた。
──ならば妖術を使えよ。
物陰から、不意にそんな声が囁いた。
その正体を、フランソワはとうに知っていた。
知っていて、気づかぬふりをし続けていたのだ。
だが──その時はその声を無視しなかった。そして、フランソワは禁じられた妖術を用いることになった。
──使う。使うから、教えてよ。
そう云うと、物陰から笑い声が起こり、「いいぜ」と返事が返ってきた。
声の主は、即座に一つ妖術を授けてくれた。
フランソワはその晩のうちに、少年を呪い殺した。
簡単な妖術だった。鏡から己の分身を召喚して、夜のうちに少年の家に向かわせたのだ。
少年は、その分身をみて喜んだようだった。
──会いにきてくれたのか? 俺、日頃はあんなこと云ってるけどよぉ、おまえのこと本当はかわいいと思っててさぁ。
少年は分身相手にそんなふうに本心を打ち明けた。
知ったことか、と分身は云って、少年の脳天を錬金銃で撃ち抜いた。
🐔
錬金銃について説明するのは、容易ではない。
厳密に語ろうとすればするほど、言葉は川の水をつかむように手の隙間からこぼれ落ちてしまう。
それは、フランソワの手に例の声の主から授けられた
冷たく光る歪んだ太刀魚の如き銃身は、古代の錬金術師が夢見た物質変換を現実のものにした其れである。
引き金を引くたびに火薬と過去の憎しみが交じり合って絶大な威力を発揮する。
弾丸は哲学者の石であるかのように、秩序を混沌へと変換する。
その爆音は、世界が引き裂かれる詠唱であり、煙は神秘を纏った余韻となって漂う。
錬金銃とは、創造と破壊の狭間で踊る人類の業そのもの――呪いであり、永遠に解けぬ問いなのだ。
両親に内緒で、鏡から分身を召喚したり、錬金銃を具現化したりといった一連の能力をフランソワに伝授してくれたのは、部屋の物陰でいつも囁く
彼奴は、フランソワの家の納屋に棲みついているのだった。昼間は近くの川で狩りをし、夜になると納屋に戻ってきて毛づくろいをする。そして、寝付けなくなると、フランソワの部屋を覗きに来る。
正体を云えば、なんてことはない巨大な
箆鷺は、自分のことを不死鳥だと信じていた。本当にそうだったのか否かはわからない。
だが、箆鷺はフランソワに云った。
──いいか、フランソワ、信じることからすべては始まるのだぜ。
だから、おまえが苦しみから逃れられると信じるなら、逃れられるのさ、と。
箆鷺は、そう云ってフランソワが首にかけた念珠を一度咥えて外し、逆さにしてもう一度掛けさせた。不思議なことにそれは先刻までの念珠とは別物に見えた。
その真ん中に小さな穴のようなものがあり、よく見れば水晶が組み込まれていたのだ。そしてこれを用いた妖術を伝授した後、こうも付け加えた。
──これにはお守りの効果もある。気持ちがふわふわしたり落ち着かない時は、いつでも此れを握りしめな。おまえを強くするためのまじないだ。何しろ、この世界でたった一人、おまえを守れるのは──おまえだけなんだ。
それはすべてが神の御心が決めたこと、というユグノー派の教えに抗うものであった。フランソワは、表向きは両親の教えを守りつつ、その裏ではこの納屋に住みついた箆鷺の教えを請いながら成長した。
阿蘭陀東印度会社の存在を知ったのは十九の時であった。貿易活動に留まらず、条約締結、軍隊の交渉など、さまざまな権限を有した世界初の株式会社である。
フランソワの家は仏蘭西から亡命してきた移民であり、移民二世である娘が阿蘭陀で手に職をもつのはかなり難儀とされていた。
然し、阿蘭陀東印度会社は、出自や国籍を問わずに人材を採用することで知られていた。然もその給与はかなり良いという。それも冒険付きだ。
ところが──その採用試験に臨むと、一笑に付された。
──うちはよぉ、女は雇わねぇよ。そういう決まりだ。無論、おまえが船乗りにとっての都合のいい玩具になりてぇってんなら別だが。へっへっへ。
──玩具にはならない。私のような気高いに人間にそのような無礼は誰にも働かせない。
──じゃあ無理だな。諦めな。
──仕方ない、諦めよう。
そう云いながら、フランソワはその部屋の隅にあった鏡に己の姿を映した。好きなだけ暴れよ、とそう念じて部屋を出ると、数秒後に面接官の悲鳴が上がった。すぐさまフランソワは部屋に戻り、男の首にナイフを突きつけている分身に「消えなさい」と命じた。
すぐに分身は幻となって消え、男は一人呆けた顔で腰を抜かしていた。
──どう? 私の力が、いずれこの会社の役に立つ日が来ると思うが?
──むう、ば、化け物め……だが、人手は足りている。
──料理はどうだ? 私は料理ならお手の物だぞ。
嘘だった。フランソワは料理が大の苦手だ。食べるのはものすごく好きだが、自分で料理をと考えると、食材は急にフランソワに牙をむくのだ。
然し、その嘘をあっさりと男は信じた。あるいは、信じることにしたようであった。
──ならば、ひとまず料理人として雇ってやる。だが約束しろ、むやみやたらと船の中でその妙な妖術を使うな。いずれはおまえの技が必要なときもあろうが、それはその時の責任者が決める。いいな?
──もちろん。私を一人の乗組員と認めてくれるなら、仲間に対して妖術は使わぬ。
こうして、フランソワは無事に、阿蘭陀東印度会社の船乗りとなったのである。
船乗りになって数年後に国の使命で東洋の小国へ向かう時、箆鷺はフランソワを納屋に呼びつけて云った。
──おまえにいくつかの、まだ教えてない妖術を授けるぜ。
横柄な態度と裏腹に、フランソワの成長した身体をじろじろと眺めては目を逸らす仕草がちぐはぐな感じはしたが、それはあえて指摘しなかった。
そして、あまりにも膨張している一物についても──。
すべては、妖術が知りたかったから。
それと、これが永遠の別れとなることを知っていたから。
その時点で箆鷺から教えられていた妖術は、鏡を用いたものと、錬金銃だけだった。
然し、ジパングに向かうとあって、箆鷺に親心が働いたものか、彼はフランソワに腐るほどの妖術を与えたのだった。
──じつを云えば、世界中を旅するってのは、転生前の我の夢でもあったのだ。
──転生前? 転生鳥なのか?
──ゲラルドゥス・メルカトルと云えば知らない奴はいないだろう。
──あのメルカトル図法の?
メルカトル図法については、学校で習っているし、航海するうえで、いまや船乗りは多大な恩恵を受けていると云ってよい。
──然様、あの頃は地図作成自体が反神的試みと云われ牢獄にぶち込まれたりと大変な目にも遭った。本来であれば我もおまえのように自由に世界中を飛び回りたかったのだが、なかなかそうもいかぬ時勢でな。
そんな前世の執念のせいか、我はこんな情けない箆鷺の外見になる代わりに〈メルカトル幻法〉なる妖術を手に入れたのだ。おまえに与えた鏡の妖術や錬金銃もそうだ。
──すごいな、たかが地図を作ってるだけの偉人より今のほうが楽しかろう?
──何が楽しいものか! こんな見た目では女も抱けない!
どうもこの箆鷺、とんだ女好きらしい。
──とにかく、おまえに〈メルカトル幻法〉のすべてを伝授してやる。だが、勘違いするなよ。妖術がおまえを守るわけじゃない。おまえがおまえを守るために妖術を使うんだ。それを間違えるな。
同じことじゃないの、とその時のフランソワは思った。
だが、航海が始まってすぐに、フランソワは理解することになった。
妖術は己を守りはしない。守るのは、己自身なのだ、と。