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第柒幕:紙月、とある転生軍鶏と決闘す 其ノ壱

「然し──鳥小舎というは、かくも眠りに適さぬものか。まったく眠れぬ」


 紙月の目は冴えわたっていた。


 先刻、わずかにまどろみかけたが、あまりに居心地が悪くてすぐに目が覚めてしまった。


 だが、眠気が去るのは物思いに耽るには好都合でもあった。


 問題は、この木格子牢の外にどうやって出るか、ということだが──。


 テルの口ぶりでは、明日になれば自由は得られるだろうということだったが、それまで待っていていいのかどうか。


 二つの使命がある。一つは金卵を奪うこと。


 だが──今では家康暗殺こそ本意となり始めていた。


 己の家族が、鶏の命で虫けらの如く扱われた。


 それが本当であるなら、断じて許してはおけぬ──。


 とは云え、心配なのは天草だ。


 嫌な予感がする。このまま待っていていいのか?

 もしも天草の正体が露呈したのであったとしたら?

 その場合、己の命すら危ういかもしれぬ。牢の移動は、処刑の前段ということは十分に考えられる。


 であれば、夜が明けるのを待っても死があるばかりなのではないか?


 紙月はいても立ってもいられなくなった。


「此処から脱出せねば」


 この牢を出たところで、〈鳥奥〉の外周にはさらに金網が張られている。それを抜けて出て行くのは至難の業だが、まずは第一関門としてこの牢を破る必要がある。


 そして──家康を殺す。


 問題は、家康が存在しているとして、その見分けが自分につくかどうか、ということだ。


 見かけはただの尾長鶏だと云う。あの家光公との謁見の際には家康と思しき尾長鶏は目隠しをされていた。だが、あれを外してしまえばもう分からない。存外、目隠しを外して此処に戻ってきているかもしれないのだ。


 ならば──。

「そうか、皆殺しにすればいいのか」

 じつに簡単なことだった。そうと決まれば、ことは早いほうがいい。悩んでいたことが急に莫迦らしく思えた。


己の屈強な脚を見た。人間の何倍も強靭なこの脚力があれば、木製の格子など、一瞬で破壊できよう。


唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!」

 気合を入れて蹴飛ばすと、めきめきとすぐに罅が入った。


 すぐに尾長鶏が数羽近寄ってきた。


「無駄だ無駄だ! 新参者、やめておけ! 骨が折れるぜ? 呼呼呼呼呼呼呼呼呼!」


 ヤスが挑発的にそう云った。


 その横で、音羽は神妙な顔つきで紙月の動向を窺っている。


「折れるのは俺の脚か、檻か? 賭けてみませぬか? 尾長鶏の皆々様」


「おいおい……生意気な口を利くんじゃねぇよ」と音羽の背後にいるべつの鶏が云った。


 若い尾長鶏だ。血気盛んな様子はヤスといい勝負だろう。


 此奴もさして頭は良くなさそうだ。


「手前は此処が拙者たちの縄張りだということを忘れているようだな? ああ?」


「賭けるのが怖いので御座るか?」


「手前! 人の話聴いてんのか?」


「人では御座らぬ。三歩で忘れる鶏で御座いましょう? もっとも、人間もいずれはそうなる身の上ではありますが」


 江戸の今は人の噂は七十五日の基準であるが、それでもせっかちになった。


 いずれ噂が、一日で興味を失われる日もこよう。


 噂が持続しないということは、記憶も持続しないということ。すなわち、人と鳥が大差のない世がすぐ其処に迫っているということである。


「命を賭けてみませぬか?」


「は?」


「もしも俺がこの牢を蹴り破ったら、貴公たちの命をいただきたい」


「呼呼呼呼呼呼! 意味のない賭けだな。おまえは牢を破れない。いいぜ、破れるのなら、命をくれてやる。では、破れなかったらどうする? その時は、手前の命では足らぬな。嘴をもらうとしようか? そのご立派で奇怪な青い毛もぜんぶ削ぐ」


「二言は──ありませぬな?」


 紙月は、最後まで尾長鶏たちに一定の敬意を失わなかった。


 本来、お命頂戴とは、殺す相手を敬い、尊ぶ心から生まれるのであるから──。


 鳥見役の任に就いていた頃、鷹狩のための鷹の世話をするうえで、日々奴らに雛を餌として与えねばならなかった。


 可愛い雛を。


 その時、紙月はいつもその小さな雛を掌で愛で、「お命頂戴いたす」と語りかけるのを忘れなかった。


 それが、せめてもの礼儀であると信じていた。


「徳川の尾長鶏に二言などあろうはずがない! 莫迦め!」


 尾長鶏たちはさもおかしなことをと云わんばばかりに呼結功呼結功と笑った。


 その一秒後──尾長鶏たちと紙月との間には何の境目もなくなっていた。


 牢は──紙月のあしゆびに屈したのである。


 尾長鶏たちはまだ笑った顔が戻らず、表情の固まったまま紙月を見返した。


「牢が消えましたぞ? 俺の勝ちということで、よろしいか?」


「呼呼結……呼結功……面白いじゃないか? 脱獄者は殺すまでよ」


 威勢のいい若い尾長鶏がそう啖呵を切ると、ほかの尾長鶏たちもそれに続いた。


 一羽目を左足で踏みつけるとぐしゃりと、頭部の砕ける音がした。


 二羽目の頭部を突いて破壊したが、三羽目のヤスは小賢しくも、体の小ささを利用して逃げ回り、紙月の足下を狙ってきた。


 一度でもその毒の塗られた趾で傷をつけられたら死が待っている。


 だが──紙月は巨体ゆえに速さには限界があった。


 いくら早く動いても、尾長鶏の本気の速さにはなかなか敵わぬ。


 中でもヤスは前の二羽よりも動きが素早い。



「スケとカクのようにはいかぬぞ、俺は」


「誰だか存じませぬな、スケとかカクとか申されましても」


「貴様がいま、奪った命だ!」


「賭けに勝ったまでのこと。貴公の命もいただきますぞ?」


「もらえるか? やってみろ! この薄鈍の化け物めが!」


 正直、速さで太刀打ちは出来ぬ。では如何にして倒すか?


 この時──獣の本能を研ぎ澄ますうちに、ある妙案が降ってきた。


「そうだ、ヤス殿──貴公は俺の本気の啼き声をお聴きしたことが御座らぬのでしたな」


「声がどうしたって?」


「想像してみたことがございますか? 音が体に入り込み、貴公の血の管という管を這いずり回る。そして、ついには管を突き破り、血が吹き溢れる」


 獣の本能を解き放て──紙月は己にそう命じる。


 あらゆる枷を取り払うのだ。


 想像したことは起こり得る。


 そう信じるのだ。


「何を云ってるのかわからんな」


「でしょうな。たとえば、其れはこんな声で御座る。お聴きいただこう。


愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵恵!」


 その一声を聴いた刹那──その場にいたヤス、音羽、そしてもう一羽が同時に全身から血を吹き出したまま走り出した。


 やがて、その頭部が千切れて飛んだ。


 頭部が千切れ飛んでもなお、三羽は走り続けている。鶏は首を刎ねても走れることは以前から知っていたからこれは驚くには当たらぬが、己の奇声の威力には心底驚いた。


 その奥に──無事な鶏が一羽だけいた。テルだった。


「いまの声を聴いても、貴公はご無事だったのですねぇ」


「儂は〈鳥声〉は聞こえておるが、現実の鼓膜はもう機能しておらんので御座る。年寄りですからなぁ。哀れな仲間たちであるよ。じゃが、其方には感服しましたぞ。さて、如何されますか。儂の命も奪うおつもりで御座るか?」


「興味がありませぬ。それより、先に進みたい。家康公──タヌキは、この奥におられるのでしょう?」


「然様。恐らくは。じゃが、お気を付けくだされ。この先には軍師が待っておられる」


「軍師?」


「そう名付けられておるのです。慥かに百戦錬磨のつわものでは御座いましてな。我ら鶏界における至高の殺し屋──軍鶏しゃもで御座る」


「軍鶏なら、郷土で散々見てきました」


「油断なされますな。彼はただの軍鶏では御座らん。はっきりとは分かりませぬが、恐らくは転生鳥と思われる。心してかかることですな」


 三羽の首無し鶏が、ようやく走るのをやめて大地に倒れた。


 その一羽の体を趾で抑えて踏みつぶしてから、紙月は答えた。


「かしこまりました。貴公は長生きしてくだされ」


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