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第肆幕:甘白、家光公と色駆け引きす 其ノ壱

 天草四郎時貞は、己の心臓の音が家光に聞こえるのではないかと、内心で冷や冷やしていた。何しろ、天下人が一介の鳥見役の少年をその場に残す意味がわからぬ。


 まさか、正体がバレたか?


 だが、それは杞憂だった。


「此方へ来い。俺の傍へ、ほれ、もそっと近くへ」


 まるで犬か猫にでも話しかけるような甘ったるい声で家光はそう云った。


 すでに家臣たちはそれぞれの任務に戻っており、その場には家光公と例の尾長鶏がいるばかりだ。


 云われるままに天草が白書院の下段に上がると、家光もまた上段から立ち上がり、中段の辺りまで進み出た。


 その肩に乗った尾長鶏の様子も、よりはっきりと確かめることができた。 


 その鳥は、奇妙なことに目を覆い隠されていた。怪我でもしているのだろうか。


 此奴が──家康か?


 天草はその尾長鶏が気になって仕方ないが、家光のほうは天草を口説くのに夢中だ。


「お主はあの化け物が大事なのか?」


「はい、あの火喰鳥の世話をするよう藩命を受けて参りました」


「然様な藩命はもうよい。この家光がよいと云っているのだ」


「よい……とはどういう意味でありましょうか?」


「俺のものになれ。悪いようにはせぬ。今よりずっといい暮らしをさせてやるぞ?」


 この言葉で、天草はようやく家光の狙いが自分自身にあるらしいことを理解した。珍しいことではない。島原の乱を起こしてからというもの、仲間内の中にも何人か天草を手籠めにしてやろうという輩が現れては、仲間に袋叩きにされるといった騒動が繰り返されてきたからだ。


「ありがたきお言葉。然しながら、余はあの鳥の世話が天命と心得ております。藩命は覆せても、天命は覆すわけにはまいりません」


「それはそれは、面白いことを云う。あの化け物の世話が天命であると?」


「余の家は、先祖代々鳥を飼い慣らすのが使命。鳥と人の関わりの架け橋となるは、余の一族が神々との間に交わした契約で御座います」


 まったくの嘘がぺらぺらと口をついて出てきた。


 だが、家光は次のように返してきた。


「ならば、お主をこの江戸城の鳥見役にしてやる。ただし、条件がある。何しろ、この江戸城にはすでに鳥見役がおるからな。それをさしおいてお主を、となると一人仕事を奪われる者が出る。お主はその代償を払わねばならぬ」


「……代償?」


「先ほどから云うておるように、俺のものになれ。なるというなら、あの火喰鳥の扱いを良くして一番いい小舎に寝かせてやろう。もちろんお主も鳥見役にしてやる」


「それは──誠に御座りますね?」


「天下人の言葉を疑うのか?」


「……滅相も御座いません。ありがたき幸せ。では、余からもお願いが」


「〈余〉とはまた分不相応な一人称を用いるではないか? まあそんなところも面白いが」


「分不相応は将軍様も同じでは? 〈俺〉などと粗野な一人称を」


「生まれた時から天下人の座が決まってる人生を想像したことがあるか? なんとも味気なく、つまらん歩き方を強いられる肥溜めの如き生だ。俺はせめてその宿痾に抗っておるのよ」


「なるほど」と答えながら、天草は内心では自分とは真逆の理由だな、と考えていた。天草は、むしろ身分に縛られず〈余〉と名乗ることこそ宿痾と思っているからだ。


「……話を戻します。先ほどの火喰鳥の住処ですが、家光様のご寵愛を受ける尾長鶏の傍の小舎をお願いします。それが叶うなら、もちろん余は貴方のものとなりましょう」


 一か八かの賭けだった。この男のものになるなど、全身の血がざわつく次元で拒絶したいところだが、それと引き換えに家康と刺し違える機会を得られるのならば、それに越したことはない。


「かまわぬ。そのように取り計らおうではないか。おい、忠秋!」


 その一声で、広間の片隅にただ一人鎮座していた家臣が深く頭を下げた。


 どうやら、かの男が時の老中、阿部忠秋であるようだった。


「話を聞いていたな? 取り急ぎ、あの化け物鳥の住処を移してやれ」


「ははあ! ただちに、仰せの通りに!」 


 阿部忠秋は、かすかに恨めし気な目を天草に向けてから、立ち去った。


「約束は果たしたぞ。では隣へ参れ。ともに酒を飲もうぞ」


「畏れながら……旅の疲れで体が汗をかいております。斯様な状態でお傍へ上がるのは、失礼かと存じます。身を清めることをお赦し願いたく」


 わずかでも時間稼ぎをせねば、と咄嗟に口をついて出たことだった。だが、言葉にしてみると、いささか分不相応な願いなようにも思えた。無礼の誹りを受けるのでは、と身構えたが、家光の態度は柔和なものだった。


「おお、それは気が付かず済まなかったな。風呂場へ案内させよう」


 天草は悟られぬように小さく息をついた。ひとまず、急場は凌いだ。


 さて──然し此処から、どう家光の手を逃れる?


 万一衣類を剥ぎ取られでもすれば、一物のないことはすぐに知れる。衆道家ゆえに興が冷めてくれればまだよいが、またべつの興趣が生まれぬとも限らない。あるいは、興が冷めたがゆえに無礼者として斬り殺されるなどということも、十分あり得よう。


 然し、だからと云って天下人の誘いを断ることなどできるのだろうか? この事態はあまりに想定外だった。想定外ゆえに、その先の未来が、天草にはまったく予想できなくなった。



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