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第参幕:江戸城にて家光公に御目見えす 其ノ弐

「フランソワ・カロン殿、お久しゅう御座るなぁ。


糞女くそあま


 桜田門が開いた先で出迎えた男は、開口一番そう云って不敵な笑みを浮かべた。


 糞女? 


 紙月はぎょっとしたが、カロンのほうは、まったく気にしているふうが見られなかった。


「お久しーぶりーデス、マッツダイラサマ」


 カロンは満面の笑みでそう答えてしずしずと歩きつつ、紙月に耳打ちした。


「松平殿は、いつもそれとなく罵詈雑言を混ぜてくる。たぶん私がそれほど日本語ができないと思っているのだろうよ」


 なるほど、と紙月は納得した。


 同時に、いまの言葉で男が老中・松平信綱であることも理解できた。


 信綱の噂はいまや全国に及んでいる。


 現在、島原の暴徒たちも松平信綱率いる少数精鋭の隠密部隊に苦しめられているという話だ。


 その知恵者ぶりは当代髄一ともいわれている。


 然し──当の人物は、知恵者と呼ぶには、かなり下卑た側面がありそうだ。


 実際、江戸城の敷地内に入るなり、カロンは外国人らしく下手くそな日本語に変わった。そんなことも知らずに、案内人の松平信綱は、意気揚々と悪態を混ぜて案内する。

此方こちらですぞ。よき乳だな」

 いつも後半の声は少し小さく、早口だ。よほど溜まっているのか、カロンに並々ならぬ興味があるか、その両方か。いずれにせよ、紙月にはどうでもいいことだ。


 三人が通されたのは、白書院に面した庭だった。


 さすがに、鳥がいるとあっては、下段であっても畳に上げるわけにはいくまい。


 白書院の荘厳たる様子は想像を絶していた。松浦藩の大広間の何倍くらいあるのだろうか。障壁画には、帝鑑図が描かれ、その絢爛たる作品の隅々に至るまで天下の誇りが刻まれているように見える。


「此処でお待ちいただこう。間もなく上段に家光公がいらっしゃる。それにしても……」


 信綱はそう云って息を飲みながら、カロンの背後に控えている紙月を食い入るように見ている。


「これは本物か?」


「ホンモノ? もちろんデース」とカロンがカタゴトで答える。


 火喰鳥を初めて見る者の反応としては、至極当然だろう。


 その雷が走るような鮮烈な色合い。巨大で引き締まった肢体。禍々しい顔つき。すべてが見る者を圧倒することは、長らく鳥見役を仰せつかってきた紙月にはよくわかる。


 初めて火喰鳥を見たときは、自分にこの怪物が扱えるのか、と不安になったものだった。


 その時──太鼓が鳴った。


 たん、潭、潭、弩潭。


「家光公の御なり!」


 途端に中段、下段にいる家臣たちが膝をつき深く頭を垂れた。


 カロンと天草も同様に膝をつき頭を垂れた。五百畳はあろう大空間の、最奥にある上段に、痩身の男が気怠そうな様子で腰を下ろした。


 その肩に──何かが静かに乗っている。


 白い肢体、赤い鶏冠、黒の眼隠し。


 だが、その異様な姿をみても、家臣たちは何も物云う様子がない。いつもの光景だということか? あれは置物か?


「顔を上げろ」


 ひどく物臭ものぐさな云い方だった。


 寝起きで機嫌がわるく、指示に対する少しの遅れも我慢がならなそうな、そんな気配が漂っている。


 カロンと天草はもちろん顔を上げたが、紙月だけはそのずっと前からその男を見据えていた。


 徳川家光──。


 痩身で血色はわるく、年の頃はまだ青年の域にあると思われる。


 此奴が、俺の家族を死に至らしめた天下人なのか。


 その顔には、下卑た笑みが浮かんでおり、視線は明らかに天草四郎に注がれていて、もっとも注目をひくはずの火喰鳥にはまったく目もくれていなかった。


「珍しいものが見られると聞いたが、其処の少年のことか?」


 家臣たちが顔を見合わせ、示し合わせたような笑い声をあげた。戯言かどうかも、いちいちそれぞれに確認しなければ危険なのだろう。


「殿、お戯れを。その後ろで御座います」と松平信綱が云った。


「後ろ? ああ、あのでかい鳥か」


 さして興味がなさそうにそう云うと、家光は扇子を広げて仰ぎ始めた。


「俺は鳥に興味などない。鳥が好きなのは、爺やだ」


 爺や──家康のことだろう。家臣の前では太父たいふと呼ぶべきところを、この家光という男はそのようなしつけは受けていないらしい。


「むろん、爺やが好きな鳥は、俺とて丁重に扱うがな。ただ、それほど近くで見ていたいほど好きではないのだ。さっさと〈鳥奥ちょうおく〉に連れていけ」


 かしこまりました、と云って家臣たちが、乱雑に紙月に手をかけようとした。


 咄嗟に、紙月は体で反応してその家臣たちを振り払った。


 だが、その行動は場にそぐわなかったようだ。


 不意に場内がざわつく。刀に手をかけている者までいる。


「この無礼な化け物めが!」


 この異国の巨鳥の外見では、化け物と云われても仕方あるまい。


 其処へ、天草が「畏れながら!」と申し出た。


「畏れながら、この鳥のご無礼をお許しくださいませ。この鳥はまだ阿蘭陀から到着して間がなく人に懐いておりません。鳥見役たるこの甘白あましろ以外には」


「ふむ……つまり、お主と行動を共にさせたほうがよいと?」


「然様で御座います」


「お主、甘白といったか?」


 天草は肯定を示すように深く頭を下げた。


 この二人と一羽のなかで、もっとも目立たぬ存在であるはずの天草に、家光は真っ先に興味を引かれたようだった。


 それはまったく意外なことに違いなかった。


「かわいい顔をしておるではないか。気に入ったぞ。もっと近う寄れ」


 云われるままに、天草は半歩前に出た。


 その刹那──家光の肩に乗っていた置物のごとき物体が、羽音を立てた。


 匂う。


 紙月の嗅覚は、敏感に人ならぬ匂いをかぎ分けた。


 あれは置物ではない。本物の鶏だ。書道家が一筆すっと振り下ろしたように長く立派な黒い尾が垂れている様はいかにも風情がある。


「ふむ……お主に免じて、その化け物の無礼は許してやる。ただし、お主もこの城に残るのなら、だがな」


 この徳川家光なる男、どうやら衆道しゅどうらしい。さては天草に一目惚れしたか。


 だが、それだけではない。今のには傍にいた何者かからの助言もあったようだ。だが、側近は誰一人口を開けてはいない。


 となると──あの鶏か? 


 しかも、鳥の気配に反応して家光は恩赦を決めたように見える。


 転生云々はともかく、家光公自身にはあの鶏が家康と認識されている、ということだろう。天草の話はどうやら本当のようだ。


 紙月の思惑をよそに家光は高らかに云った。


「いいことを思いついた。決めたぞ。早速明日〈闘鳥とうちょううたげ〉を催そうではないか」


 家臣が一同、ざわざわと騒ぎ始める。


「殿、畏れながら、いささか急すぎるのでは……と」と家臣の一人が中段から物申した。


 周囲の者たちは気まずそうに黙ったままその様子を見守っている。


「俺の決定に不服を申し立てる気か?」


「いえ……! 滅相も御座いません。然し……」


「俺を誰と心得る?」


「はっ! 天下人、徳川家光公にあらせられます」


「なら、貴様のすることは何だ?」


「さ……早速、宴の支度にとりかかります」


「それでいい。あの化け物は、宴の目玉となろう」


 弱り切った様子で、家臣たちは顔を見合わせ、その言葉を受け入れたようだった。


 紙月としては、ずっと化け物呼ばわりされているのがどうにも居心地が悪かったが、火喰鳥の異形の見目形みめかたちならば仕方ないかとすぐに思い直した。


 カロンが紙月の耳元で囁いた。


「紙月、〈金卵〉を頼む」


 さんざん「愚かな鳥」呼ばわりしておいて、肝心な時には名前で呼ぶというのが、少々あざとい気がしないでもない。


「わかっている。まったく。おまえは呑気でいいな」


「幸運を祈る。私はこれから日本橋の阿蘭陀宿のふかふかの布団で体を休める。ドゥーイ。ああ、今のは阿蘭陀語で〈またね〉って意味」


 そう云い残すと、カロンは「ワタクシハ、コレニテ失礼イタシマース」とまたカタゴトで云って下がった。


「ご苦労。さて、では貴様ら」


 家光はカロンの姿が見えなくなってから家臣たちに云う。


「この化け物を用心して〈鳥奥〉へ運べ。先刻のようなヘマはするなよ。丁重に扱え」


 咄嗟に天草が「私が……」と紙月に近づこうとしたが、家光公はそれを制した。


「甘白、お主とはもう少し話がある。案ずるな。あとでその化け物には会える」


「……はあ」


 紙月の両脇から縄が衆流する衆流衆流と伸びてきた。


 一瞬の隙をついて足にまで紐が巻き付けられ、紙月は完全に自由を奪われた。


「愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵!」


 放せ、と叫んだつもりだったが、もはや人語は失われていた。


「おお、これは化け物らしく凄まじい啼き声だな。明日の宴が楽しみじゃ! ひゃっはっはぁ!」


 家光の高笑いを合図に、男たちは紙月を引きずって運び始めた。


 紙月は混乱していた。なぜ自分だけが運ばれる? 


 場所は〈鳥奥〉というところだろう。それはいい。


 だが、なぜ天草は一緒ではないのだ?


 🐔


 白書院を後にした信綱は、廊下を歩きながら忠秋に「やれやれ」と小声で云った。


「また家光公のよからぬ癖が出たな」


「まあ、良いでは御座らぬか」と忠明が、顔は前を向いたまま応じる。


「何より、あの一件のあとも、ああしてあの鶏を家康公と信じておられることにそれがしは安堵しております」


「ああ、それは我もだ」


 二人は、あの〈殺鳥事件〉のあと、すぐにべつの影武者の尾長鶏を立て、その鳥に目隠しをした。


 当然、ただの目隠し鳥ゆえに、言葉を話すはずもない。


 ところが、相変わらず家光公は時折、鶏相手に言葉をかわされる。しかも、まるで相手の言葉がわかるかのような仕草をしたりするのだ。


「殿が、単に頭のからくりの乱れた御仁であって良かった。一時は家康公の転生を信じかけたこともあったが、あの様子では、どうやらすべては殿の妄想にすぎないのであろうな……」


「無論で御座る。そもそも鶏が言葉を話すわけが御座いません。まあ、何であれ、大事なのはこの江戸の世が末永く続いていくこと。たとえ如何なる狂人が天下人であっても、我々で何とか切り盛りしていきましょうぞ」


 そう云うと、忠明はきびすを返した。


「では、某は頭のからくりの乱れた御仁の行動を監視しに戻ります」


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