「明晩には江戸に入りたいのだがな!」
フランソワ・カロンは馬を走らせながら、前方を走る紙月とその上に跨った鳥見役の少年に向けて叫んだ。叫ばねば、風に声が遮られるのだ。
昨夜は宿場町に泊まり、今朝はまた日も明けぬうちに宿場町を後にして数時間走って、ようやく京都を抜け東海道に入った。馬の脚だと、このままぶっ通しで走ったとて明日の夜半になるは必定。
「その駄馬の足では無理だろうな。乗り主も操作がうまくなさそうだし」
紙月は正直に伝えた。もちろん走ったままである。と云ってもちょっと早歩きするくらいの感覚だった。カロンの馬が遅すぎるのだ。
昨日、下関を出たところで馬場に立ち寄り、カロンは馬を買い上げた。馬場主はカロンが阿蘭陀人であることから畏怖と蔑みの入り混じった表情を浮かべた。
本来なら追い返すところだが、そのとなりに恐ろしげな巨鳥がいていつ襲い掛かるとも知れぬ気配から、馬を売らぬわけにはいかぬ、だが最上の馬は渡したくない──との意識が働いたものだろう。結果、駄馬をつかまされたわけだ。
「鳥使い、その鳥なる愚かを黙らせて」
云われて、紙月に跨っている鳥使いの少年はぐいと手綱を引いた。
すると、どういうわけかそれ以上の言葉を云うことができなくなった。喉がきゅっとしまった感じだ。旅はこの二人と一羽で向かっている。紙月は、鳥獣使いの少年の名前をまだ聞いていない。そもそもこんな少年は見たことがない。少なくとも、藩が用意した者ではなさそうだ。
「で、どうしたらいい?」とカロンが尋ねた。少年が手綱を緩めると、また自然と声が出るようになった。
「俺に乗れば、半日で着ける。足音も立てずに移動できるから、関所をうまく回避することも
「ふむ……だが、人を二人も乗せられるのか?」
「この少年はほぼ重さを感じない。おまえは乳房と尻の分だけ少年よりは少しは重そうだが、たかが知れていよう」
「たかが知れているとは何だ! 私は自分のサイズに満足している!」
「さいず……何の話だ?」
「然し江戸城主に渡す品に跨るのは気が引けるな。まあいいか」
存外自分のなかに厳密な戒律を設けないタチのようで、カロンは軽々と紙月の上にまたがった。図々しくも少年より前に腰かけ、紙月の首に巻き付いている。
役目を終えた馬は逆方向へと逃げてゆく。たぶん馬場に帰ったのだろう。
「おまえ、思っていたより軽いな」
「私が軽い女だというのか」
「そうだが。なぜ怒るのだ?」
阿蘭陀人の女は気難しいと思いつつ、紙月は早速、全力で駆け始めた。
「鳥なる愚かよ、旅の途中で妙な気を起こしたらただちに首を斬る」
フランソワ・カロンは、紙月が一歩進むごとに、豊満な肉体を紙月の首の辺りにぶつけている。これで妙な気を起こさぬ男はいまいが、
きっと火喰鳥ゆえに、雌の火喰鳥にでも出会わぬかぎり興奮しない体になってしまったのだろう。因果なものだ。
「首を斬ると云っても、おまえ刀が使いこなせるのか?」
紙月は純粋な疑問からカロンに尋ねた。
「フン。莫迦にするな。刀くらい使える。銃ほどではないがな」
「そうか。まあ、安心してくれ。悲しいことに、火喰鳥の俺は人間の女に興味がないらしい」
「興味がない……? はっはっは。其処らの女ならともかく、この私に興味がないなどというのは、さすがに建前が過ぎるなぁ。ああおかしい」
「阿蘭陀の女ってのは、そんなに皆
「わ、こら……急に飛ばすな! 速すぎる……死ぬぞ」
カロンが騒ぎ立て、紙月の首にぎゅっと掴まった。柔らかい感触が押し当てられる。これでも何も感じぬか。流石に紙月は自分でも男としての危機を感じずにはいられない。
「なに、まだ半分も飛ばしていないぞ。しっかりと掴まっていろ」
カロンは云われるままに紙月の首に細い腕を巻き付けた。人間の己であらば羨ましがる状況だが、いまの紙月は火喰鳥ゆえにそうした煩悩からは逃れることができている。
ただ
翔けながら、己自身であるところの火喰鳥という生き物に考えをめぐらす。此奴は鳥なのに全体何故飛べないのだろうか。飛べれば、もっと楽に江戸城まで向かうこともできように。
🐔
その夜は、東海道から大きく逸れた山道を走ったために宿場町に出会わず、野宿をすることになった。闇は古井戸より深く、鬼の尻の穴の如く底なしだった。
カロンはすでに一人、阿蘭陀式の妖術とやらで火薬球を投げ、謎の簡易宿をその場に組み立てていた。見たことのない滑らかな素材で、骨組みなども鉄材より軽く丈夫にみえる。
「では私はこの中で休む。其方たちは野宿で我慢するがいい。あと命が惜しければこの類まれなる美女を襲おうなどと考えぬように」
「だから生憎今はまるで女に興味がないのだ」
「ふん、どうだかね」
彼女はそう云い捨てて、中に引っ込むと、鍵をかけたのか蛾茶利と鈍い金属音が響いた。
鳥使いの少年は、紙月のとなりで座った状態ですでに眠っていた。
紙月は、その闇夜に眠る蛾や鈴虫の寝息を聞きながら、舌なめずりを止められない。腹が減ってくる。起き上がり、狩猟を試みるが、樫の樹に結ばれた手綱に引っ張られて動きが制止され、思うように出来ない。
すると、少年が紙月の動きに気づき、不意に目覚めた。
だが──その目の具合が昼間のそれとは違っている。
昼間、カロンの前では、従順な下僕然としていた。
それがどうだ。今は何らかの意思をもつ者にみえる。
そして、それは見間違えではなかった。
少年はこう云ったのである。
「江戸城に着く前に、汝と一度話しておきたかった。今宵はいい機会だ」
「……なんだ、少年、言葉が話せたのか」
「声が大きい。汝、
少年はかなり小声で話している。
「ぱん……それは何だ?」
「麺麭も知らぬか。旨いぞ。余は万物を麺麭に変えることができる。これは余の敬愛する方の奥儀を余が真似るうちに獲得したもの。恐れよ」
「恐れよと云われても、そのパンというのが分からぬからな」
少年はさらに声を落とす。恐らく、フランソワ・カロンに会話を聞かれぬように心がけているのに違いない。
「俺は子どもと世間話をする趣味はないぜ?」
「鳥のくせに生意気を云うじゃないか。だが、安心したまえ。余も鳥と世間話をする趣味はない。汝に別の役目を与えたい」
「役目だ……? 俺は鳥使いごときの命令は受けないぜ? いまこんな姿なのだって殿が命じたから仕方なく……」
「そんなことは余の知ったことではない。ああ、そうだ、紹介がまだであったな、余の名は──天草四郎時貞という」
「あまくさ……天草だと!?」
天草四郎時貞──その名を聴いた刹那、クイーンの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」が脳内を駆け巡った。
この時代にあってその名を知らぬ者はもはやいまい。
目下、江戸幕府を困惑させている基督教信者たちによる島原での叛乱を統率する若き人物、それが天草四郎時貞である。少年は、唇に人差し指をあて、静かにと合図する。
「声が大きい。あの女に聞こえたらどうする。これは余と汝との秘密である」
「おい……何の戯言だ?」
「余は戯言は嫌いだ。好きなのは基督。基督教徒から聖人と持て囃される島原の乱の統率者、天草四郎時貞とは余のこと」
「……面白い告白だな。それが本当なら、俺はおまえの死体をもって江戸城入りすれば英雄になれるってわけだ」
「それはどうかな。脱がせてみれば一目瞭然だが、余には生まれつき男性器がついていない。そんな余の死体をもっていっても、城主が余を天草四郎とは認めなかろう。どこぞの少女を殺した粗暴な外来種の巨鳥が血祭に上げられるだけのことよ」
「おまえ、まさか女か?」
「そういう見分け方に意味があるのか? ならば汝はただの鳥だな」
紙月はまじまじと少年をつま先から頭のてっぺんまで眺めた。どこからどう見ても少年にしか見えない。取り立てて胸のあたりに不自然な膨らみもなく、尻が突き出ているわけでもない。歩き方に性差が出やすいものだが、今のところはそれも感じなかった。
「つまり、己を人間と思い込んだ案山子みたいなものか?」
「……汝は喩えが下手であるな。とにかく、余に男のソレはない。今は変装で身を窶しているが、変装を解けば、より一層女に見えることであろうな」
「護身術で変装しているのか?」
「それもあるが、この倫理の遅れた国で女とみられる益がないのだ」
「益? よくわからんな。男がきらいということか」
「男は好きである。基督も男だからな」
「紛らわしいな。色恋の話と宗教の話は混ぜるな危険だぜ?」
「混ぜたのは汝。余ではない」
「なるほど。つまり、返す刀で斬られたってわけだ」
「比喩が下手なだけでなく慣用句の使い方も妙であるな。鳥になる前からか?」
「五月蠅い。それで、何故天草四郎がこんなところにいる? 戦から
「巻くのは尻尾であろう。そして余に尻尾はない。慥かに、島原の乱は負け戦の気配が濃厚だが、それは想定内である。まあ想像より早かったが。で、こうなった以上、次なる計画に移らねばならない。つまりは逆転の秘策、江戸城本丸潜入作戦だ」
「潜入して何とする気だ?」
天草はニヤリと笑った。その微笑はひどく小悪魔的でもあり、美しくもあった。
「決まってるじゃないか。徳川の神を殺すのであるよ」