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第壱幕:鳥めづる少年、火喰鳥に転生す 其の弐

 紙月は気を落ち着かせる。どうせろくでもない一日が始まるはずだった。最近は、また戦乱の世に戻ってくれないか、などと莫迦げたことばかり考えている。本当にろくでもない日々だった。


 ──おまえのような家禄無しは、服を着るのも分不相応に感じるなぁ。

一元太はよくそんなことを云っては、紙月の服を無造作に引き裂いたものだった。


 下級藩士の家柄で、家禄も奪われてしまったがゆえに、志はあるものの日々、一元太たち上級藩士たちからいじめを受けてきた。


 挙句、藩が云いつけたのは鳥見役。これでは出世の見込みはない。いっそ鳥にでもなってしまったほうがマシだった。


 ──このまま磔で死ぬってのが本望じゃないのか? おまえの親がそうだったように。


 ときに、一元太は仲間たちと紙月を丸太に縛りつけ、足下で薪を焚き、その苦しむ姿をえんえん楽しんだりした。「切支丹遊びをしようぜ、紙月」というのが、お決まりの口上だった。


 紙月が藩勤めを始めたのは、両親の死がきっかけだった。若くして家督を継ぎ、家の者たちを養っていかなければならない。だが、秘かな野心もあった。藩主に取り入って偉くなり、ゆくゆくは重鎮となって藩主に復讐を遂げる。


 そのための藩勤めであったが──初っ端から鳥見役で出鼻をくじかれた。


 然し、考えてみれば、鳥見役をあてがわれるも道理。紙月の両親は隠れ切支丹だった。「隠れ」という以上、無論ひっそりと信仰していたのだが、ある時、叔父夫婦が念珠ロザリオを見つけ出して藩主のもとに持っていき、弾圧を受けることになった。藩の役人たちが家に押し入り、父母を連れ去った時のことを、紙月は昨日のことのように鮮明に思い出すことができた。


 ──空亜紙之介殿、お茶をいただきに参った。


 最初は、穏やかな様子だった。てっきり、仕事の話でもしに来たのか、と紙月は思い、父・紙之介を誇らしく思って奥の間から聞き耳を立てていたくらいだった。


 しばらくは世間話が続いた。が、不意に雲行きが怪しくなった。


 ──これからは藩ごとの乱れを正してゆかねばなりませぬ。そのためには、我が国に蔓延る切支丹と云う野茨は断ち切らねば。そう思いませぬか?


 ──ええ……まったく……。


 父、紙之介は弱弱しく笑って相槌を打った。


 その目の前に、役人は念珠をぶら下げて見せた。


 ──この忌々しい代物、ご記憶に御座らぬか?


 ──さあ……念珠というものは、実際目の当たりにしたことが御座いませんゆえ……。


 ──ほう? 紙之介殿、いま、念珠と仰られましたな? 拙者は、一言もこれが何であるか申しておらぬのに。


 にやりと役人が笑うと、一気に紙之介は青ざめた。だが動揺具合は、お茶を運んできた母、さほのほうが露骨だった。さほは、思わずお盆をひっくり返して茶を台無しにしてしまったのだった。すかさず、役人はさほに目を留めると、念珠を床に放り投げて云った。


 ──奥方、それを踏んでみてくださらぬか? それは汚らわしい石にすぎぬ。気にせず踏みしめていただきたい。


 ──も、申し訳御座いませぬ……それだけは……どうかお許しを……。

さほは、日頃からまったく嘘のつけない性分だった。正直が美徳と思っているのでもなく、ただそれ以外の道を知らぬという根っからの正直者だった。それが、仇となった。


 ──空亜紙之介殿、さほ殿、お二方はどうやら謀反を企てる野茨であるようだ。となれば、残念ながら成敗せねばなりませぬな。無論、お二方の御子たちも同様。野茨というものは、根こそぎ焼いてしまわねば、すぐまた生えてくるもので御座いますゆえ。


 ──そ……それだけはご勘弁を! せめて……せめて子どもたちだけは……。


 ──武士の誇りがおありなら、そう惨めに懇願などおよしなさい。然し、拙者にも人情というものは御座います。それほどに恥も忘れて懇願するのであれば、御子についてはまた別で考えないこともない。もっとも、それが棘をもたぬ野茨であるならば、ということですが。


 役人は、今度は懐から黄金色の像を取り出した。基督キリスト像であった。


 紙月は奥の間にじっと身を潜めて展開を襖の隙間から見守っていた。が、突然その襖が開き、紙月は役人に半ば引きずられ、父母の前に連れてこられた。別室にいた妹の紙乃も同様だった。母親ゆずりの正直さと健やかな美しさを備えた娘だった。


 役人は紙月と紙乃に、基督像を示してこう云った。


 ──お休みのところ悪いが、こちらも急を要する。なに、すぐに終わる用事だ。これを踏んでみてはくれぬか? 


 紙月は、父と母の顔を交互に見やった。父が、強く頷いた。母が、首を横に振った。その仕草の意味までは、紙月には読み取れなかった。ただ、気が付いたら、踏んでいた。とんでもないことを仕出かした自負はあった。母が泣き崩れたのをみて、いっそう心が痛んだ。父がもう一度強く頷いたのが、唯一の救いだった。それでいい、と云っているように感じたからだ。


 だが──妹の紙乃はべつの選択をした。すなわち、踏むのを拒んだのだ。


 ──ご勘弁ください……基督様を踏むだなんて……。


 その一言で、紙乃の運命も決まった。紙月とそれ以外の家族の運命が分かれた、あまりにも残酷な瞬間だった。


 ──温情厚き拙者は、この棘のない野茨一本のみを、此処に遺すと決めました。


 そう云うと、役人は泣き叫ぶさほ、紙乃を縛りあげた。


 ──紙之介殿、誠に残念至極。拙者も斯様なお美しい妻子に拷問をはたらくなど、したくは御座らぬ。恨むのならご自身を。貴殿は、出会ってはならぬ神に出会ってしまわれたのだ。なに、貴殿の処罰は決まっているが、さほ殿、紙乃殿は拷問を受けるだけ。神に縋れば、救われることも御座いましょう。尤も、どの神に縋るのかに拠りますが。


 結局、さほも紙乃も、弾圧を受け、そのまま帰らぬ人となった。どのような拷問を受けたのか詳細は知らぬが、藩から後に届けられた亡骸を見れば、全身の皮膚が裂け、骨が歪むほどのむごい仕打ちが何日にもわたり行われたであろうことは一目瞭然だった。


 本当は、自分もそんな傷だらけの亡骸になって生を終えるべきだったのだ。


 なのに──図々しくも一人だけ、生き長らえてしまった。


 切支丹の家の、棘のない野茨として。


 そんな家の息子が藩勤めをしたからと云って、出世の見込める役を用意されるわけがない。毎日続くいじめのなかで、いっそ、鳥にでも──そう何度願ったことか。


 いっそ鳥にでも──と。


 🐔


 不意に足音がして、何者かが鳥屋敷に入って来た。


「ご苦労だったな、果心居士かしんこじよ」


 そう威厳のある声で云ったのは、間違いなく平戸藩主の松浦重信だった。つい先日、藩主となったばかりのまだ若き人物なれど、人をこき使う才能だけは先代譲りである。


「いえいえ、我が妖術を以てすれば容易きことでございます」


「此奴は本当に紙月なのか? この鳥が紙月と入れ替わった証拠はあるか?」


 紙月は我が耳を疑った。重信は〈この鳥〉と云わなかったか?  


 鳥と入れ替わった──? 


 たしかに此処は鳥屋敷なれど、重信の目はどう見ても自分に向いている。


 しかも果心居士だと? そんな馬鹿な……。まさか、俺の首に縄をかけた老人が果心居士だというのか? 


 果心居士とは室町時代からその存在を噂されていた幻術師だ。今の時代に生きていれば、百歳はとうに超えていることになる。


 そう思ってよく見れば、老人の白髪は、地面近くにまで長く伸びている。 


 まるで百年超の歳月、髪を切る間もなかったとでも云うかのように。


「間違いありませぬ。その証拠に、この鳥には我々の会話がすべてわかっ

ております。そうであるな? 返事をせい、紙月」


「……もちろん、わかっております。然し私は一体……」


 驚いた。今度は無事に声が出たからだ。


 松浦重信は、紙月の目の前にやってきたが、なんと藩主もまた明らかに怯えていた。いつも横柄な態度で紙月に接してきたくせに、今日はいったいどういう風の吹き回しか。しかも、この重信よりも紙月の視線が上にあるのは一体──。


 ふと足元に目をやって虚を突かれた。強靭な脚。一思いに心臓を貫けそうな鋭利な鉤爪。見覚えは無論ある。だが、それは自分の足ではない。これは──。


「なんだこれ……」


 すると、果心居士と思しき老人が云った。


「其方は、火喰鳥になったのだ」


 火喰鳥に? なるほど、道理である。強靭な脚、殺人的な鉤爪。胴体を見れば黒い羽で覆われている。


 さては──火見丸の中に入りこんでしまったのか。


 すると、いまの自分はあの真っ青な頭部に、火でも喰ったような喉の赤き肉垂れをもった奇妙な巨鳥になっているというわけか。


「其方は、一つのしるしとして、または概念として、比喩そのものとなった、という云い方も可能かもしれぬ」


「よくわかりませんが、何となく褒められている気がしてきました」


「褒めてはいないが、ほれ、蝸牛かたつむりでも食べるか?」


 人を莫迦にするのもたいがいにしろ、と思った。


 蝸牛など、人間の喰うものではない。


 ところが──そう抵抗したのもつかの間、気が付けば紙月はすすんでそれを貪り食べ始めていた。まったく体の制御がきかなかった。しかも、旨い、旨い。


「哀れよ……人としての本能を早くも忘れたか」


 重信がそんなことを云って怯えつつ冷笑を浮かべた。果心居士がそれに応える。


「名を呼ばれぬかぎり、この者の心は鳥そのもの。然し、ひとたび名を呼ばれれば、みずからの使命を思い出すのです」


「なるほど……お主の妖術は本物だな」


「本物、という云い方は奇妙ですな。妖術とは本物と偽物のあわいにあるもの。妖しければこその妖術で御座いましょう」


 うむ、とうなずく藩主は、紙月にじろりと睨まれると、また怯えた表情になった。なんだ、此奴はこんなにも臆病者であったのか? まったく笑止。


 自分はこんな臆病者をずっと恐れていたのか。


 こんな臆病者の命令で、父や母は殺されたのか。


 哀れだ──。


 いや、哀れは自分か。こんな姿で、餌を貪り食っている。


 しかも旨い。蝸牛がかくも旨いのであれば、毎晩でも食べたいところだ。


「紙月、汝はこれより江戸城に入る。彼女と一緒にな」


 藩主がそう云った時、その背後から南蛮人の女が現れた。平戸藩では南蛮人の男ならばよく見かけるが、女を見るのは初めてだった。


 しかも、美しい……。


 単に美しいというのではない。妙に吐き気と怖気を同時にもたらす類の美しさだ。その吐き気とは、自分自身に向けられたものだと紙月にはわかった。要するに、この女を我が物にしたいと思う己自身への嫌悪感が、吐き気と怖気につながっているのだ。


阿蘭陀オランダ人のフランソワ・カロンだ。彼女は阿蘭陀商館の次官で、間もなく館長代理になる存在でもある。我々の言葉も堪能で通詞役としても申し分ない。彼女と行動をともにせよ」


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