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第壱幕:鳥めづる少年、火喰鳥に転生す 其ノ壱

 空亜紙月くうあしづきは目覚めた時、その視界がやけに広いことに驚いていた。何しろ室内の右端から左端、天井から床面までが瞬時に把握できる。ほぼ死角はないと云ってよい。


 場所は、通称〈鳥屋敷〉。此処には平戸藩が集めた珍しい鳥たちがさまざまな檻に入れられて飼育されている。紙月のような鳥の世話を任ぜられた鳥見役は、この〈鳥屋敷〉で鳥たちと寝食を共にすることが義務付けられている。任務の八割方は鷹匠として鷹狩に備えることであるが、ほかの鳥の面倒も見る。


 とみに、近年は外来種の鳥が観賞用に持て囃され、この平戸藩でもやはり珍種が集められており、その世話を一手に引き受けるのが鳥見役の仕事となっている。


 閑話休題──近頃の紙月の大仕事と云えば、やはり火喰鳥・火見丸ひみまるの世話である。


 火見丸が〈鳥屋敷〉に連れてこられたのはひと月ほど前のこと。阿蘭陀オランダの商人の何某が藩主の鳥好きに付け入り、南蛮の珍鳥怪鳥を次々連れてくるものだから、鳥見役は見たこともない鳥の扱いをすぐさま見抜かねばならぬ。


 火見丸がやってきたときも、それは同じだった。


 然し、まず最初にその異様な姿に度肝を抜かれた。


 ──な、なんという……恐ろしき姿……。


 ──ほう、紙月でも怖いか?


 鳥見役頭である鵜飼鷺ノ介がそう震える声で云った。日頃はどんな鳥にも物怖じせぬはずの鵜飼が及び腰に手綱を握っている。それもそのはず、その鳥はこれまで見てきたどのような鳥よりも、醜悪さと美しさが複雑に編み込まれた姿をしていた。


 それに、まず大きい。


 どれほど大きいかと云えば、此の國の人の嵩の倍近くはあるであろうか。まずもって地に立っている鳥を見上げるというのが初めてのことであった。


 そこへ加えて、眼光がまた鋭い。否、それさえ小さな特徴か。


 特筆すべきは稲妻に呪われたかの如き真っ青な頭部に、火でも喰ったような喉の赤き肉垂れ。体の八割を覆う黒々とした毛と対を為し、その部分だけが異彩を放っている。


 見ているだけで鳥肌が立つ。恐ろしさを通り越して、いっそ崇高なものに出会った心地がしたのだ。その衝撃たるや、脳内に当世にありもせぬツェッペリンの「イミグラント・ソング」が流れたくらいだ。その外見は、さながらこの世に存在してはならぬ禍々しい神のようであった。


──こ、ここここ、此の鳥は、火喰鳥ひくいどりという。


──ひくい、どり……ああ、絵では見たことが御座います。


 もっとも、その絵には駝鳥だちょうと記されていたようだったが、いま目の前にいるそれがその〈駝鳥〉であろうことは明らかだ。


 それにしても──逞しい脚だ。加えて、刃物の如き鋭利な鉤爪。斯様な脚で踏みつけられれば、人間でも一溜りもあるまい。と、身震いした刹那、とどめを刺そうとでも云うかの如く、突如、火喰鳥が啼いた。


 ──愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵!


 ある意味では、その恐ろしき姿に相応しい啼き声であった。否、恐ろしすぎた。己の鼓膜と、皮膚の産毛という産毛とが、その重々しくも鋭き音に震えていた。


 地獄の底からの使者だと云われても、信じてしまうかもしれぬ。


 ──ひぃ…! 


 情けなくも鵜飼は悲鳴を上げて手綱を放しかけ、慌ててもう一度掴むと、それを紙月に無理やり握らせた。


 ──お……おぉおおお主が世話をせよ!良いな?


 明らかに厭い勤めを押し付けられたのだと分かったが、さりとてそれを拒める立場にもない。紙月は「畏まりました」とその命を受け入れた。


 その日から、紙月はこの忌まわしき巨鳥の世話を始めた。最初にまず名前を付けた。


 ──よし、貴殿は今日から〈火見丸〉だ。よろしく頼むぞ。


 鳥に対する礼節を重んじる紙月は、火見丸に深く頭を下げて見せた。


 その一瞬の隙をついて、火見丸は嘴で襲い掛かってきた。


 咄嗟に紙月は下がる。すると今度は、脚を大きく掲げて蹴りかかってきた。


 鉤爪が、紙月の心臓を狙っていた。


 どうにかかわし、手綱を握って木杭に縛りつけて動きを封じ、その間に餌の支度をした。そんなことを何度か繰り返すうち、餌の時には大人しく触らせてもくれるようになった。


 然し、やはり普通の鳥とはちがう。信頼されたかと思えば背を向けた刹那に蹴ろうという動きを見せる。何とも戦を好む生き物だが、そんな飼い馴らされぬところを、いつしか紙月も愉しむようになっていた。


 怪物は怪物だが、此の生き物からすれば人間こそが怪物であるに相違ない。訳の分からぬ怪物に世話をされて、隙あらば殺そうと構えているのは、むしろ健気で親しみが持てる気すらしはじめた。


 さて──今日も火見丸の様子を見るところから始めるか。


 紙月はそう考える。


 だが、それにしても妙だ。いつも目覚めたばかりの紙月に火鉢を近づけてくる年長の市元太いちげんたが、何やら怯えたような目でこちらを見ている。しかも、紙月を見上げているのだ。


 ──俺を、見上げている、だと?


 紙月は決して背が大きくなかった。なのに、二人とも立っているにも拘わらず、市元太より自分のほうが大きくなっている?


「ばばばばば……化け物じゃ……」


 市元太はそんなことを云って震えている。


「どうしたのです? 今日はそういう虐め方ですか? それって俺はどういう反応をするのが正解なのでしょうか? また的外れな反応でがっかりされても困るんですよね」


 そう話しているつもりだった。


 だが、実際にはずっと、恵恵恵恵恵恵恵っと世にも奇妙な声を出しているだけだった気がする。おかしい。


 今、慥かに自分は言の葉を一つも話していなかったぞ。


 それにこれは火見丸の声だ。


 けれど、慥かに紙月の咽喉が出した音だ。もう一度、言葉を発しようとしたが、同じだった。愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵、愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵。


「市元太殿、俺はどうしてしまったんだろうか……これはおかしい……夜中に食べた饅頭がいけなかったのでしょうか?」


 そう云ったつもりだが、これも言葉なき奇声に変わっただけである。


「どどどどどうやって檻から出た……?」


「どうやってって……鳥たちの檻の前で眠るのが役目ではありませんか」


 これもやはり言葉にはならない。


 相変わらずの、愚ぇ恵恵恵恵恵恵恵恵。


 酷いな。風邪でもひいたか。


 と、そのとき、上空から何かが降ってきて、首に縄がかけられた。


「大人しくせよ。まだ人としての理性があるのならば」


 しわがれた声が、真後ろから響く。聞き覚えはない。思うに、声の主は直前まで天井の骨組みの裏に潜んでいたのだろう。そして、この者が、どうやら自分の首に縄をかけたようだ。然し、それを外すべく手を回そうとするも、手が使えない。


 というか──手がない?


 とにかくこれは、いつもの朝とは何から何までちがうらしい。紙月は体が大きくなり、しかも手がないようなのだ。手がない? そんな莫迦な。

 まあでも、いいではないか。痛みがあるわけじゃなし。


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