壊れた水槽の前に立ち尽くす坂本真理の頭は、混乱と疑念でいっぱいだった。水槽のガラスは、内側から外側に向けて粉々に割れていた。まるで内部から強い力が押し出されたような痕跡が、現実離れした状況を物語っている。
警備員が無線で施設の管理者に報告する声を聞きながら、坂本は膝をつき、床に散らばるガラスの破片を注意深く観察した。破片の断面には微かなスライム状の物質が付着している。それはタコが触れた跡だろうか。
「これは…どうしてこんなことに?」
その場に駆けつけた同僚の研究者たちも、状況を飲み込めず、ただ言葉を失っている。坂本は思い切ってガラス破片の一部を拾い、顕微鏡で確認することを決意した。
異常の兆候
研究室に戻った坂本は、拾った破片を慎重に顕微鏡で観察し始めた。ガラス表面には微細な藻類の残骸とともに、見慣れない傷のパターンが刻まれている。普通の衝撃ではなく、何らかの意図的な力が働いたように見える。
さらに解析を進めると、水槽の内壁に付着していた微粒子が、タコ特有の分泌物と一致することが分かった。それはタコが道具を使う際に発生するもので、オクトが水槽内で何かを操作していた可能性を示唆していた。
「まさか、これも計画的な行動?」
坂本は、ふとデータロガーのことを思い出した。水槽の破壊直前に送られてきた最後のデータを確認する必要がある。彼女は急いでパソコンを立ち上げ、データロガーの履歴にアクセスした。
消えたデータ
しかし、画面には思いもよらない表示が映し出された。データロガーの信号は完全に途絶えているばかりか、最後の数秒間のデータが消失していたのだ。通常、データロガーは内部メモリにデータを保存する仕組みだが、それすら空白になっている。
「こんなことが…どうやって?」
坂本は頭を抱えた。この状況では、タコがどうやって水槽を抜け出したのかを確実に説明する手段がない。だが、オクトがこの異常事態の中心にいることは間違いない。
監視カメラの記録
坂本は次に施設内の監視カメラの映像を確認することにした。水槽室を含むエリアは、24時間監視カメラで撮影されている。しかし、映像を見て彼女は息を呑んだ。
「これって…?」
カメラの映像には、水槽内のオクトが異様な動きを繰り返している様子が映っていた。彼の動きは一見無作為に見えるが、よく観察すると、照明の点滅パターンと同期しているように見えた。
「まるで…光を利用している?」
その直後、水槽のガラスが突然ひび割れ、大きな音とともに破裂する。だが、映像の中でオクトが脱出する瞬間は映っていなかった。
不可解な脱出
「オクト、あなたは何をしたの?」
坂本は、映像を何度も再生しながら考えを巡らせた。光のパターンとオクトの動きには、何らかの関連がある。だが、それが意図的なものなのか、偶然の一致なのかはまだ分からない。
坂本の頭の中に、これまでの研究で培ってきた知識と、この異常事態が結びつき始めた。タコが学習能力を使って環境を操作し、自らの意思で行動を計画したとすれば――。
「これは単なる脱走じゃない。オクトが何かを伝えようとしているのかもしれない…」
彼女の胸の奥で、疑問と期待が渦巻いていた。この事件は、オクトの知性をさらに探る機会となるのか、それとも、全く新たな脅威の始まりとなるのか。
坂本は再び立ち上がり、この不可解な謎を解き明かすための第一歩を踏み出した。