静まり返った夜の研究室。坂本真理はデスクの上に散らばる論文の束と、モニターに映るデータの海に目を走らせていた。タコ「オクト」に装着したデータロガーが送信する膨大な情報を解析することが、彼女の日常の一部となっていた。このデータは、タコの高い知能と驚異的な適応力を解明する鍵だった。だが、この夜、真理の脳裏に浮かぶのは、別の不安だった。
「信号が途絶えた…?」
突然、データロガーのリアルタイムモニタリングが途切れた。モニターには「NO SIGNAL」の文字が赤く点滅している。研究室の機器に問題があるのかと一瞬考えたが、すぐにその可能性を否定した。この設備は、厳重に管理されている。
「オクト…何が起こったの?」
慌ててデータロガーの過去ログを確認する。最後に記録されたデータは、異常な光のパターンを示していた。まるで何かに反応するように、オクトが特定の動きを繰り返していることがわかる。それは、これまでの行動パターンとはまったく異なるものだった。
坂本は急いで研究室を飛び出し、施設内の水槽室へ向かった。走るたびに心拍数が上がり、不安が胸を締め付ける。
水槽室の扉を開けた瞬間、彼女の足が止まった。床一面に広がる水。無惨に砕け散った水槽の破片が、蛍光灯の光を受けて鈍く輝いている。
「嘘…でしょ…」
水槽の中にいるはずのオクトの姿はどこにもない。鍵付きの水槽の蓋は外されておらず、まるで中から何かが突き破ったように、ガラスが内側から外へ向けて飛び散っている。その痕跡は、ただの偶然では説明できないほど不自然だった。
背後から足音が近づく。施設の警備員がやってきて、状況を確認すると驚愕の表情を浮かべた。
「水槽が…壊れている?これは一体どういうことなんだ?」
坂本は、ガラスの破片と床に残る水滴を見つめながら、冷静に現実を理解しようと努めた。だが、心の中では一つの問いがぐるぐると回っていた。
「オクト、どうやって逃げたの?」
そして次の瞬間、彼女は確信する。これは単なる脱走ではない。何かもっと深い理由がある――オクトは自らの意思で、水槽を出たのだ。
この不可解な事件の真相を解き明かすため、坂本は動き出す。果たしてオクトはどこへ行ったのか。そして、そこにはどんな目的が隠されているのか。
すべての始まりは、この壊れた水槽からだった。