エステル王女とその取り巻きから解放されたアイリスはその後【固有能力】である【影操作】を駆使してエステルの追撃を躱し続け、今はひとり放課後の閑散とした廊下をトボトボと歩いていた。
「……王女様の、勧誘、なんとか振り切れた、かな?」
ごく一般的な平民の家庭で育ったアイリスにとって周りがなんと言おうと『王女』であるエステルは雲の上の存在である。
そんな彼女がまさか自分に声をかけてくるなど夢にも思わなかったアイリスは内心満更でもない心境だった。
「ボクなんか、なんの役にも立たないのに……エステル姫はお優しいな——っ」
自嘲気味にぼやくアイリスは、瞬間廊下の先から聞こえてきた話し声にビクッと肩を振るわせて、トプンっと自らの影にその身を沈めた。
「私が先に推した」
「いや、絶対ウチが先」
「私の方が推し愛が深い」
「はい、はーいウチ処女捧げられるゥ」
「推しに対して失礼、下品」
「推してるからこそ全部捧げんの、普通じゃん?」
「は?」
「あ?」
よくわからないやり取りを繰り広げる女生徒等の声がその場から遠ざかっていくのを確認し、アイリスは姿を表した。
「は、はぁ、はぁ……今日は、『力』を使いすぎちゃった。早く教室に寄って、帰ろう……」
アイリスが【固有能力】で影に潜めるのは長くて三分程度。
実際人目から隠れる以外の用途で能力を使用したことがないため、〈影に潜る〉以外能力のことは何も把握も出来ていない。
アイリスは重い足を引き摺るように教室へと向かう。
今日は一日中エステルから逃げ回っていた為荷物など全て教室に置きっぱなしにしてしまっていた。
「王女様の仲間になったら、変われる……のかな。でも、体も小さくて弱いボクじゃ、何も出来ない。
自分の意思を伝えたくても、人前だと全然喋れないし。仲間になれても、どうせ……」
ズキリ、とアイリスは胸の奥が痛むのを感じた。
アイリスの身長は極端に低い。
それは周りと比べて少し低いなどという次元ではなく、学園令嬢のルナが言ったように幼い小女と間違われても仕方のないレベルだ。
その最たる原因はアイリスの【固有能力】にある。
【固有能力】は一般的な〈魔法的概念〉を凌駕する特異な力であると同時に、能力によっては常時膨大な魔力を必要としてしまう【固有能力】も少なくない。
アイリスの【影操作】もこの典型であり無意識下においても常に自身の影に干渉し続けているため常時一定量の魔力を消費している。
アイリスの身長、だけでなく全体的に発育が年齢に対し未発達なのは【固有能力】を持って生まれてしまった故の〈成長不全〉であった。
そこに加えて、昔から体が小さい事が原因で周囲から虐められることも多かったアイリスは幸か不幸か『ぼっち』を増長させる【固有能力】を持ち合わせていたため、完全な『コミュ障』へと至っていた。
今日は運悪く幼い頃からアイリスを虐めている獣人族のグループに見つかってしまい、揶揄われていた所をエステル王女に助けられ、しかし、王女様という生き物への接し方がわからず影に逃げようとした瞬間を捕獲され……いつのまにか王女の近衛軍に入る展開になっていた。
「嬉しかったけど、やっぱり、ボクには無理だよ……」
ひとり教室の前で佇み扉に手をかけようとした瞬間。
————あ、——いい——もっと——スク——ド——。
教室の扉に手をかけようとしたアイリスの手が止まる。
獣人の本能がけたたましい警鐘を打ち鳴らし、アイリスは扉の前で硬直してしまった。
「え、叫び声? 先生の声に似てるけど……?」
アイリスの本能は即時撤退を告げている。
それなのに、なぜか今に限っては興味の方が勝ってしまい、恐る恐る扉に向かって耳を向ける。
——ダメ、っ、——それ————おねがい——ヤメ——。
(先生が、助けを、もとめている!?)
絶対に何か関わっては行けない出来事が起きているとアイリスの本能は感じた。
同時に今日声をかけてくれた王女の声と助けてくれた姿がアイリスの脳裏に浮かんだ。
「か、変わりたい……ボクも、仲間に、なれるなら」
ジャネットはクラスでも影の薄いアイリスに目をかけてくれる数少ない繋がりの一つ。
もし、扉の先で起きている出来事でジャネットの身に何か危機的な状況が起きていたなら、無力なアイリスには何も出来ないかもしれない。
それでも影に潜って逃げれば情報を誰かに伝え助けを呼ぶことも出来るかもしれない。
そのためには中で何が起きているかをその目で確認する必要がある。
「——っ先生!!」
意を決したアイリスは教室の扉を思い切り開け放った。
シン、と静まり返った教室内。
視線を向ければ、最近眼鏡を外して髪も整えた事で、本来の美貌があらわになったジャネットが黙々と机に向かい書き物をしている。
「ん? あら、アイリスさん? どうしたの? 忘れ物?」
優しく微笑みを向けるジャネットの顔に変わった様子はない。
あえて言うなれば前髪が僅かにぺっとりと頬に張り付いているくらいのもので、
「アイリスさん?」
首を傾げたジャネットの言葉にハッと我にかえったアイリスはパタパタと自分の机に向かい、荷物を抱えてぺこりとジャネットに一礼した後教室を出ようとしたところで不意に違和感を覚える。
「ん、なんか、臭う?」
獣人の優れた嗅覚が僅かに異臭を嗅ぎとり、ピクピクと鼻を動かす。
「どうか、したのかな? アイリスさん」
「——はぅっ!?」
不気味なほどに満面の笑みで問われたアイリスはビクッと肩を跳ねさせ慌てて教室を後にした。
教室の扉をピシャリと閉めて廊下に飛び出したアイリスはホッと呼吸を整え、同時に何事もなかった事に安堵の息を漏らして帰路につこうと振り返った。
瞬間。
「ふむ……興味深い」
「へぁあああっ!?!?」
ジッと至近距離でこちらを見つめる無機質な瞳に思わず間抜けな叫び声を発し、流れるように染みついた動きで影に避難しようとしたその首根っこをグッと掴まれた。
「は、はぅ、はぅぅ」
「影の【固有能力】か、多様性に優れた強力な能力……なにより」
子猫のように摘み上げられたアイリスはまさしく怯える子猫の様相で元凶である少年と視線を合わせ、
「ケモ耳黒猫美少女が
無機質な色の瞳に底知れない恐怖を覚えガタガタと身を震わせた後、フッと意識を手放した。
アイリスはこの後〈学武祭〉当日まで自宅に帰れる事はなかった。