茫漠とした闇色の世界は今日も変わらず静寂に満ち、陽の光さえも拒む深海にはソレの眼光だけが怪しく金色の光を帯びていた。
ソレは思考しない、ソレはただ本能のままに獲物を捕食し闇の深い海底の奥底に身を潜める。
何万年と繰り返してきた不変的な日々。
しかしその日だけは、静寂を引き裂く水面の音に引き寄せられ、普段は姿を現すことのない海面近くに顔を覗かせた。
「ク、クラーケンだっ!! 取り舵ッ! 今すぐこの場から離脱するぞっ」
「なんて大きさだ……こんなクラーケン、見たことないぞ」
「くっ——【固有能力:鑑定】!! な、〈エンシェント・カオス・クラーケン〉だと……太古の化け物がなぜこんな海域にっ!? 終わりだ。俺たちは、助からない」
ソレがたまたま目にした生き物は大きなモノに多くの小さき者が住み着いている奇妙な生き物だった。
「船体を掴まれた! 海に引き摺り込まれるぞっ!?」
「ああ、神よ……天より救いの勇者を、我らのもとに」
「諦めるなっ! 生きる選択肢を捨てるなぁあ!」
ソレは生まれ持った本能のまま奇妙な生き物を砕き小さな者たちをただ咀嚼する。
だが、変化は瞬間起きた。小さな者たち——【人種】を初めて捕食したソレ。
【エンシェント・カオス・クラーケン】という個体名をもつ大山と見紛いそうな巨大な怪物は、その日初めて自分という生き物を知覚した。
厳密には元々備わっていたエンシェント・カオス・クラーケンの【固有能力:悪食】により捕食した人種が偶然持っていた【固有能力:鑑定】を得た事で、膨大な世界という情報がエンシェント・カオス・クラーケンの脳裏に刻まれたのだ。
変化はそれだけではなかった。
初めて人種を捕食したエンシェント・カオス・クラーケンは思考し始めた。
自分は何者なのか、人種とは何なのか、ここはどこなのか、なぜあんなにも人種は美味なのか、他にも【固有能力】は存在するのか、また人種を捕食すればその力が得られるのか、知るとは何か、知識とは、なんと甘美————。
魔王討伐後の人類史における、史上最悪最凶の海洋性魔獣が誕生した瞬間である。
多くの人種を捕食し、その度に知識と力を手に入れ、より凶悪で強大な存在へと変質を果たしたエンシェント・カオス・クラーケンは、同時に満たされない『欲望』というものも初めて経験する。
もっと知りたい、もっと様々な知識と味を体験したい、全て自分のものにしたい。
増長し肥大化した欲求の奴隷となってしまったエンシェント・カオス・クラーケンは最も犯してはならない愚、地上へと自ら歩み出てしまった。
山のような巨体と強力な【固有能力】、人種の知識から学んだ【魔法】の力を持って三日三晩地上を蹂躙したエンシェント・カオス・クラーケンは三国、五都市を壊滅。
阿鼻叫喚を地上へともたらしたが、当時【勇者召喚】にて魔王を討伐し
ゴドソラム王国により再び地上世界は平和を取り戻した。
彼の国は【勇者召喚】の必要性、勇者の偉大さを再び世界に知らしめる。
世界の国々はこれに頷くより他なかった。
***
ゴドソラム王国が所有する孤島。その地下にある研究施設に、とある少年が囚われていた。
少年の名はホオズキ・カイ。
【固有能力:無限再生】と言う超常の力を有し、異世界より召喚された勇者の一人である。
「いいねぇ〜いいよぉ、カイくんっ! 君の体は本当に素晴らしいっ‼︎ どれだけ刻んでも、どこを切り落としてもッ! 茹でても腐らせても溶かしても、捕食させてもっ! すぐに再生し、我々に新しい実験の機会を与えてくれるっ!」
嬉々として白衣姿で、研究用とは到底思えない手斧を少年の体へと鼻歌まじりに振り下ろすマッドサイエンティスト。
「——……」
しかし少年は虚空に光のない視線を漂わせたまま声ひとつ上げずに悪魔の所業をその身に受けている。
死んでいるのか、否、確かに少年の心臓は鼓動を刻んでいる。
「我々は本日、君の体を使って偉大なる人類の第一歩を踏み出す! 『エンシェント・カオス・クラーケン』あの悪夢を地上に植え付けた厄災の魔獣! その、〈魔核〉を! 君の核として移植したらぁ? どうなるぅ? どうなっちゃうんだいっ!? Hey!!
これより、人魔融合術式『プロジェクト・スクイド』を開始するよSetッ!」
研究室に響く奇声。
彼らは秘密裏に勇者を拉致し非道な実験を繰り返す猟奇殺人集団、というわけではない。
一〇〇〇年前、魔王の脅威に晒された地上世界に突如として現れた異界よりの救世主『勇者』。
彼は見事魔王を封印し世界に平和をもたらすも、魔王を倒し切ることが出来なかった事に責任を感じ、新たな勇者へと思いを託すべく封印の弱まる一〇〇年周期毎に異世界より勇者が召喚される召喚魔法陣を構築した。
その後一〇〇年毎に召喚される勇者達は着実に魔王の力を削ぎ、配下の魔族を退け、今より四〇〇年前に召喚された勇者によって完全に魔王をこの世から消滅させた。
「取り除いた心臓の位置にぃ〜、超絶Bigな〈魔核〉をっ! お、おお? エンシェント・カオス・クラーケンの〈魔核〉が呼応している? 生きているのか? OH! 小さくなって心臓の位置に納まった!?
本当に!? ほんとうに融合しちゃうわけっ? カイくんSay!?」
しかし、人々は魔王討伐後も勇者召喚を辞めなかった。
この世界に存在する人族以外の多くの種族達が異世界から無闇に人を呼び込むなと意を唱えたが、勇者達のもたらす未知の技術、知識、そして勇者だけが手にしていた【魔法】と異なる超常の力【固有能力】。
人族は勇者によって築かれた人族の栄華、勇者の血統を増やすことで得られる超常の力に魅せられ、初代勇者の残した召喚術式を解析し、数多の生贄を元にいつでも異世界から勇者を召喚できる機関を構築した。
次第に勇者のヒエラルキーは救世主から繁栄に必要な『道具』へと堕ちていく。
ホオズキ・カイが受けているような被人道的実験も国家公認で行われていくようになった。
例え未来を夢見る十六歳の少年が心臓だけ動く廃人の傀儡と化したとしても。
「Excellentッ! 適合率99%! 我々の夢『プロジェクト・スクイド』は成った。
勇者を超える人族の新たなる英雄っ〈魔人〉を誕生させることに成功したのだっ!
さあ、この廃人をさっさと隷属——ッゴファ」
周辺諸国が徒党を組み抗議を行なっていた『勇者召喚撤廃の訴え』もまるで狙い澄ましたように現れた【海底からの悪夢】エンシェント・カオス・クラーケンの引き起こした悲劇により誰もゴドソラム王国へと声をあげるものはいなくなった。
そうして歯止めが効かなくなった王国の非道は、今宵、その行き過ぎた蛮行により自ら報いを受けることになる。
「——ココは、じブんんん、はハ? ヒヒひトと、カらダ、キおク、くつウう? イたミみミミみ」
唐突に意識を覚醒させたホオズキ・カイの体はその黒い瞳に金色の瞳孔を走らせ、無意識に最も近くに居た生き物を、
「じ、じぶ、ぶん、はホうずき? プロじぇ、スクすく……ほおずき・すくイド? あ、あー。
あー、あー、せいたい、こえ、しゃべる、じぶん、うまれる、じょうほう、ひつよう」
エンシェント・カオス・クラーケンの〈魔核〉を植え付けられ新たな存在〈魔人〉として生み出された元ホオズキ・カイは自らの存在を確認するように、体が被った苦痛を元凶たるゴドソラム王国へ返すべく、ごく自然な足取りで研究室を後にした。
この日一夜にして『ホオズキ・カイ』という勇者の手によってゴドソラム王国は三日三晩蹂躙され続け、滅んだ。
その後単身で一国を滅ぼした『亡国の勇者』もまた、悪夢の終わりを告げるように忽然と姿を消したという。
この日を境に各国は世界的協定を締結。
〈あらゆる召喚的儀式、魔法行使の禁止〉
〈勇者に頼らない世界のための各種族合同教育機関の設立〉
〈勇者の血統、固有能力の独占禁止〉
同じ悲劇を繰り返すことのないよう全種族の代表が集い世界評議会を発足。
評議会の下あらゆる協定がなされ、同時に世界評議会へ参画した全種族間で和平が結ばれることとなった。
これが『勇者動乱事変』として、向こう一〇〇年語り継がれる世界的大事件である。