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中編

 出会い頭での臭い宣告に呆然とする悪魔へ、ベアトリスは淡々と続けた。

「あなたからは清掃の行き届いていない、お手洗いのような臭いがいたしますわ。まさかその黒い粘ついたものは、人糞でいらして?」

「ウンコなわけあるか! これは地獄の淀みである!」


 先ほどまでのフリオのように、悪魔がギャースと叫んだ。悪魔にとって、人間たちの負の感情――淀みをどれだけ身にまとわせているかは、一種のステータスなのだ。


 それをまさか、ウンコに間違えられるなんて。悪魔史上、一番の不名誉である。これは傷付く。


 しかし悪魔に怒鳴られようとも、ベアトリスは一切動じない。

「まあ。地獄では排泄物を淀みと表現なさるのですね。雅な文化ですこと」

「ウンコじゃねぇよ! お前らの汚い感情の煮凝りだ、これは! 悪魔にとってはお洒落なの!」

「そうでしたか。大変失礼いたしました」

 ベアトリスは先ほどまでよりぴったりと扇子を顔の下半分にくっつけ、目だけ細めて詫びた。扇子は悪臭除けのようだ。

 そして、仰々しい口調が抜け落ちた悪魔へ、ゆるりと追撃をした。


「それはそれとして、契約につきましてはお断りいたします」

「なんでだ!」

「先ほども申し上げました通り、臭いので。煮凝りであろうと人糞であろうと、悪臭発生装置のような方とのお付き合いはご遠慮いたしたく存じます」

「んだとこのア――」

 アマ、と続けようとして、悪魔は我に返る。


 いけないいけない、ようやく見つけた大物なんだ。しかも公衆の面前で婚約破棄をされるという、とんだ醜態に晒されている好機付きだ。ここは冷静に落としにかからなければ――と、色ボケ王子よりも冷静に考えた。

 そして一つ深呼吸をして、底の見えない笑顔を再装着。もうだいぶ手遅れな気がするけれど。


「……そのような、つれない態度を取るでない。契約したからと言って、我と四六時中傍にいる必要はないのだ。ただそなたの願いを叶える際に、我を呼び出せばいいだけだ」

「あら。案外ビジネスライクでいらっしゃいますのね」

 意外と好感触だ。よっしゃ、と悪魔は内心でガッツポーズを取る。

「ああ、これは双方の益のための契約であるからな」

「ところで契約と仰るからには、対価が必要なのでしょう? あなたは何をお求めで? やはり人糞や牛糞を?」

「もうウンコから離れてくれない!?」

 が、優美な声での追いウンコ責めに、たちまちメッキが剥がれ落ちる。


「ってか悪魔がウンコ集めて何すんだよ!」

「あら。いい堆肥になりましてよ?」

「悪魔が農業するかよ! 嫌だよ、そんなスローライフでロハスな悪魔! お前は見たいわけ!?」

「興味はございますわね。よろしければ、我が領地にある畑をお貸ししましょうか?」

「悪魔に土地貸すなよ!」

 完全にベアトリスのペースに乗せられ、悪魔はギャンギャン喚いた。最後に大きく息を吐き、膝をつく。同時にめまいにも襲われた。


「……あれ?」

 回る視界の中で、悪魔は困惑した声を上げた。ベアトリスも不思議そうに首を傾げる。

「どうされました? やはり人糞をご所望で?」

 この軽口に反撃する気力もない。


 悪魔は元々、この世ではなく地獄の住人である。そのため、現世の生き物のような肉体は持たないのだ。

 限りなく魂に近い彼らは、現世において精神的ダメージを受けると大きく消耗するのだ。

 もっとも悪魔をいじめようなどという、酔狂な輩はいない。なので悪魔自身も、現世に降り立つ際のデメリットをよく知らなかったのだ。


 ベアトリスという鬼メンタルをロックオンしたばかりに、大きく精神力を削られた悪魔は動けなくなっていた。

 そんな彼目掛け、金色のひも状の何かが飛んできた。ロザリオのようだ。

 誰かが投げたロザリオは、輪投げよろしく悪魔の首に見事引っかかった。途端、悪魔の体に真っ白な光が走る。


「ぎゃん!」

 蹴とばされた犬のような悲鳴を上げ、悪魔が白目を剥いて失神した。

 貴族たちはみな、目を丸くしてぶっ倒れた悪魔を見た。ベアトリスも、ぱちくりと赤い目を瞬き、すぐにロザリオの投擲元を探す。

 少し離れた場所で、上背のある銀髪の男性がいた。息がだいぶ上がっているので、どうやら走って会場入りしたらしい。


 ベアトリスの視線に気づいた男性が、額の汗を拭ってにっかり笑った。こちらへ歩み寄る彼に、ベアトリスは淑女の礼を取る。

「危ないところを助けて頂きました。ありがとうございます、猊下げいか

「全然危なそうには見えなかったが、まあ何より」

 国王陛下の年の離れた異母弟であり、教会の枢機卿でもあるルカが朗らかに返す。そして渋い顔で、床に座り込む甥っ子を見た。引っ付いたままのダナ嬢ともども、呆然自失状態である。


「フリオよ、お前も懲りない男だな。後で兄上からたっぷり絞られるといい」

「……はい……」

 ベアトリスの口撃に加えて悪魔も登場したことで、こちらも精神的に疲弊しきっているらしい。なんともか細い声だ。


 ルカは失神中の悪魔を後ろ手で拘束する。神聖文字の掘られた、金属製の手枷を嵌めると側近に命じて連行させた。なおルカも側近たちも、きっちり革製の手袋を装着している。ウンk――淀み対策だろうか。


 ベアトリスは手慣れた様子の彼らを観察しながら、おずおずとルカに声をかけた。彼女は馬鹿にしていい相手以外には、とても誠実な態度を取るのだ。

「猊下。あの悪魔はどうなるのでしょうか?」

「二度と人間界に降臨できないよう、処置をしてから地獄に落とす手はずだ」

「処刑はなさらないので?」

「連中に肉体はない。人間界の道理では完全に殺せないんだ」

「まあ、そうでしたか」


 頬に手を添え、ベアトリスが赤い目を丸くする。先ほどまで悪魔を容赦なく言葉責めしていた姿とは全く違う、年相応の反応に、ルカが面白そうに笑った。

「しかしベアトリス嬢は、相変わらず物怖じしないんだな」

「父より、女だからと舐められることのないよう、教育を受けておりますので」

 ベアトリスはすまし顔で答える。

 そう。彼女の苛烈さは父譲りであった。ちなみに少し離れた場所で今もオロオロしている兄は、おっとりした母似である。


「いやはや。王子妃には勿体ない逸材だよ」

 素早く手袋を外したルカが、ゆるりと両手を広げた。芝居がかった仕草だが、いつでも泰然とした彼がすると妙に様になる。

 彼は食えない笑顔で、そっとベアトリスの手を取った。

「どうだ、教会うちに来ないか?」

「教会へ……? それは、今後を見越しての温情と考えてよろしいのでしょうか?」

 長いまつげを震わせて、少し困り顔のベアトリスが問う。

 問題ありの出涸らし色ボケ王子とはいえ、王族から婚約破棄された令嬢を欲しがる貴族は、恐らく限られている。


 嫁の貰い手がなくなるであろう彼女の逃げ場所を提供する、という申し出だろうか――そうベアトリスは考えたのだ。

 しかしルカはゆっくり首を振った。

「これは温情ではなく懇願――いや、正しくはスカウトだな。ベアトリス嬢、どうか私の右腕になって欲しい」

「え……はい?」

 舞踏会が始まって以来、ベアトリスのすまし顔がここで初めて歪んだ。反対にルカの笑みが濃くなる。

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