社交シーズンの訪れを告げる、王城での舞踏会。
国の貴族が一堂に会するこの場において、真っ当な常識を持ち合わせていれば揉め事は絶対に起こさない。何かやらかそうものなら、国中で末代まで語られるからだ。
「――それが、ごく一般的な感覚ですのに。王子殿下におかれましては、普通の神経をお持ちでいらっしゃらなかったようで。さすがはやんごとなき血筋の御方ですわ」
「婚約破棄を言い渡されて、最初に言うのがそれか!」
手にした扇子で口元を隠しながら、チクチクと婚約者に口撃を加えているのは侯爵令嬢のベアトリスだ。艶やかな黒髪を生花と真珠で彩り、瞳の色に合わせた深紅のドレスを着こなす立ち姿は、まるで彼女自身が大輪の薔薇のようにも見える。
そして薔薇がトゲを持つように、ベアトリス嬢ははちゃめちゃな美貌とえげつない気の強さでも有名だった。現に今も、エスコートをすっぽかした婚約者の代わりを務める兄を、扇子でシッシと追いやっては、女連れで現れた婚約者をいじめている。
とはいえ先制攻撃は、その婚約者がやらかしたのだが。他国からの賓客が体調不良となり、付き添う形で国王夫妻が退席した瞬間を見計らっての婚約破棄宣言であった。
「わたくしどもの婚約は、国王陛下のご命令に基づいてのものです。それを公の場で覆されるということは、王子殿下は陛下のご判断を軽んじていらっしゃるということでしょうか?」
「そんなわけ、あるか!」
チクチクいじめられているのは金髪に青い瞳をした、いかにも王子で実際王子のフリオである。ただこちらは、麗しい顔に反してちょっぴり頭が色ボケとして有名だった。今もその腕には、ピンク頭でピンクのドレスを着たピンクの化身のような少女をまとわりつかせている。
フリオはピンクの化身もとい、浮気相手の男爵令嬢に甘い視線を注いだ後で、息を吸ってベアトリスを見る。
「陛下を尊んではいる……いるが、俺はこのダナと出会い、真実の愛を見つけてしまったのだ! ならばその愛に殉じたいのだ!」
フリオはそう宣言して、空いた方の手を大きく広げた。ダナという名前らしいピンクまみれだけが、
「フリオ様、素敵ですぅ!」
と拍手喝采を送る。
ベアトリスは唖然とする聴衆をちらりと見て、すぐに悦に浸るバカップルへ向き直る。
「真実の愛、でいらっしゃいますか。それはそれは素晴らしいことで」
にこり、とベアトリスが一瞬だけ微笑む。しかし目が一切笑っていない。少し距離を置いて見守る兄や、彼女のお友達である令嬢たちも思わず息を飲む。
これ、絶対怒ってるやん――と誰もが察していた。
「ですが、このような公の場で婚約破棄を仰る必要はないのでは?」
「うっ」
図星を突かれ、フリオが怯む。ダナもわざとらしく震えた。
「何物にも揺るがぬ愛なのでしたら、このような卑怯千万・奇襲まがいの方法を用いずとも正々堂々と手順を踏んで婚約を解消なさり、しかる後に再度婚約なさってもよろしいのでは?」
「うううっ、うるさい! 黙れ!」
滔々とぶつけられる正論に、とうとうフリオがキレた。先ほどまで広げていた腕を真正面に突き出し、ビシリとベアトリスを指さす。
「俺はお前の、そういうところが大嫌いなのだ! 性悪で、常に自分は正しいという顔をして……お前など、魔力量と家柄で俺の婚約者に選ばれただけの悪女だろう!」
「ええ左様でございます。だって殿下は、魔力がまるで出涸らしのお茶っ葉のような有様ですもの。配偶者選びにおいて魔力量を重視されても、致し方ないかと」
つまり色だけで、味も香りもないということらしい。顔だけ王子へのたとえとして的確過ぎるため、つい噴き出す者もいた。たちまち、フリオの顔が真っ赤になる。
「そこでお茶っ葉のたとえは要らんだろ!」
「申し訳ありません。いつか披露せねば、と常々機会を窺っておりましたもので、つい」
「常々! 窺うな!」
フリオは涙目で地団駄を踏んだ。王子というよりも、もはや駄々っ子である。
「お前のような毒婦は、悪魔の嫁にでもなればいいんだ!」
そして色ボケ駄々っ子が、そう吠えた瞬間だった。
――承知した、貰い受けおう。
どこからか、低く不穏な声が響いた。思わずフリオは固まり、辺りを見渡す。ダナも今度は演技ではなく、心底不安そうな顔で彼にしがみついた。
ベアトリスは小首をかしげ、辺りをゆっくり見渡すと
「あら、何でしょうか」
真っ白な天井の一部に、黒い染みがあることに気付いた。彼女の呟きに、周囲も天井へ目を向けてたちまち悲鳴を上げる。
黒い染みはみるみるうちに大きくなり、そして同色の粘液がしたたり始めたのだ。突然の不可解な事態に、警備を担当している騎士たちも慌てふためく。
やがてひと際大きな粘液の塊がベチョリ、と嫌な音を立てて大理石の床に落ちた。幸いにして、染みが大きくなり始めた段階で皆が遠巻きにしていたので、巻き込まれた者はいなかった。
床に落ちた粘液は一つ震えると、少しずつ形を変化させていく。徐々に人の形を取り始めた。
そうして現れたのは、額に角を生やし鋭い牙と青い肌を持つ異形の男。
「……悪魔だ……」
誰かが、呟いた。その言葉に異形の男は牙を見せつけるようにニヤリと笑う。
「左様。そこの王子の願いを受け、こうして地獄より馳せ参じた次第だ」
地を這うような声に、女性たちが悲鳴を上げる。失神する者もいた。
ただ一人静かに彼を見つめるベアトリスに、悪魔は粘液にまみれた手を伸ばす。
「さあ、強き魔力を秘めし乙女よ。我と契約せよ。そこの男への復讐も、国の滅亡も、思いのままであるぞ?」
悪魔の言葉に、男性たちも悲鳴をこぼす。しかし誰も、騎士たちもが恐怖して動けない。
悪魔はいつも、人間を誑かし、現世を破壊する機会を狙っているのだ。
また高い魔力量を持つ者にも、彼らはいつも舌なめずりをしている。
魔力に秀でた人間と契約すれば、現世で更に大きな力を振るえるためだ。
だからこそ、どの国でも魔力を持つ者を手厚く保護しているというのに――この色ボケめ!
恐怖しながらも、貴族たちは射殺す視線でバカップルをにらんだ。ギクリ、とフリオとダナが体を震わせる。
こんな水面下の諍いにも我関せず。ベアトリスはいっそ無表情に悪魔を見据え
「臭いですわね、あなた」
こう言い放った。手を伸ばしたまま、悪魔が固まる。
「……え?」