どこか遠く、なにもない、名前のない場所へ行きたいと思うことが増えた。
一般道徳も倫理もない、ただ清廉な、純白の百合が咲く花畑へ。
そんなことを夢見てはいるが、現実、ドライフラワーでもないただの枯れた花を豪奢な花瓶に飾り、それがこの汚濁に満ちた部屋で一番美しい存在なのだと、誰に言えようか。
柔らかな日差しが注ぐ中外にちらつく雪はこの生活への不吉な祝福で、窓の枠に積もるたびに、私がこの冬の間は生きているのだということの証明になるのだと思えた。
かさを増す冷徹な雪が、イカロスの逆説的に融解する、その頃には、自死を考えるだろう。
どうせ考えるだけで終わる、自分の人生の終止符すらも打てずに、生きていることが恥さらしなのだと自覚しながら、この一室という劇場で主観の悲劇、客観の喜劇を続けている。まるで道化。
などと、自己嫌悪に陥っている間に、チャイムが鳴った。
ああ、リュウノスケが来たのだろうか。きっとそうだ、精神の暗闇に身を窶している私を救いに、カーテンの隙間から注ぐ光のような男が。
すぐに立ち上がって、玄関へ向かった。
ドアを開くと、見覚えのない、不気味な清潔感のある老婆が立っていた。
「貴方は神を信じますか?」
「神の使者すらも私を愚弄するのか!」
扉を力の限りで閉めた。
ドアの内側でさめざめ泣く。
私を救うべくリュウノスケが来たと、そう信じていたのに。
運命は残酷だ、という月並みな事を、改めて感じた。
いや、私がリュウノスケが来ると信じていた時、既に来るという運命は決まっていたはずなのだ。
それでも来なかったのは、神があの刺客を送ってきたからだろう。
今すぐに反旗を翻し、あの老婆を、滅多刺しに。
そう思った刹那、背中にあるドアが開いた。
「あれ、鍵あいてる」
くぐもっていた玄関に、光が入ってきた。
「旦那ぁ、やっほー」
「嗚呼、リュウノスケ、リュウノスケ」
私は扉を閉めたときよりも強い力で、彼を抱擁した。
「旦那ってば、苦しいよー」
リュウノスケはあっぷあっぷとしながらも、ははは、と愛おしそうに笑っている。
散らかった部屋に彼を招いた。
床が見えない中、ものを避けて、リュウノスケはあぐらをかいて座っている。
「話したいことがいっぱいあるんです、貴方が来る前に神の刺客が来て、けれど私は折れずに貴方を待ち続けたのですよ」
「えーと、よく分かんねぇけど、オレを待ってくれてたんだね」
「そうです、私は、さめざめ泣きながらも貴方を待ち」
「あー、そういえば、いちごオレ買ってきたよ、好きでしょ、飲みなよ」
「!」
即座に土産を受取り、ストローをさして勢いよく飲む。
「はは、旦那、本当に甘いもの好きだねぇ」
ずぞー、と一気に飲み干すと、空になってしまった。
「ってかこの部屋寒いねぇ、この部屋ゴミだらけだから暖房つけられないもんね、火事になるし」
寒い、などと考えたことがなかった。
触覚、痛覚すらももはや麻痺しているのに、温度感覚など、さらにない。
「オレが部屋片付けるからさ、ストーブつけれるようにしようぜ」
こくり、と頷いた。リュウノスケが片付けるのなら、なんの不都合もない。
「なんか夏もこういう感じだった気がするや」
彼は部屋に散乱しているゼリー飲料の空や、大量のいちごオレの空などのゴミを片っ端からゴミ袋に入れていく。
その中で、リュウノスケが固まった。
「ねぇ、旦那、これって」
血まみれのカミソリ、首吊ロープ、薬の瓶を固めておいていたのを忘れていた。
「ああ、それですか」
「それですか、じゃないよ、また死のうとしたの?」
「はい」
リュウノスケはしばらく悩むように頭を搔いたあとに、なにかを決めたように、こちらを見た。
「いっしょに過ごそうか、死ぬまで」
厭世観、諦念は、この時に消えた、かのように思ったが、後日また顔を出すという事を、その時の私は思ってもいなかった。
***
最近、ずっと旦那と過ごしている。
それはそれは過ぎた楽しさだ。
毎日子どもを殺して、いっしょに生活をして、幸せに暮らしていた。
けれど、幸せに満たされていくのにつれて、旦那はオレに依存していくのが目に見えるようになった。
「リュウノスケ、寝る時は私のそばから離れないって約束しましたよね」
旦那は怒り心頭と言った様子で、タコのぬいぐるみを抱きしめている、というよりかは握りつぶしながら、オレの方をじっと見ている。
「ごめんごめん、水飲んでたんだ」
「もう離れてはいけませんよ、さぁ、眠りましょう」
旦那は布団までオレを引っ張って、引きずり込んで、そのまま眠ってしまった。
オレがいないとさみしくて眠れないのかぁ。
可愛いなぁ、と思って眺めながら、オレもそのまま眠った。
十一時くらい、旦那に起こされてやっとオレは起きた。
「ホットケーキを作りなさい、あと、いちごオレも用意しなさい」
眠気の中で、オレは旦那に言われるがままに昼食を用意した。
「ふむ、なかなか美味ではありませんか」
旦那はほとんどメープルシロップに浸されているホットケーキを食べて、満足して某刑事ドラマの再放送を見始めた。
旦那の情緒は目まぐるしく変わる。
ドーパミン過多みたいな状態で笑い続けていたのに、ヒステリーを起こしたり、オレに無茶を言ったり。そんな不安定さも、愛おしかった。
それはそれで幸せだった。
今日もそのパターンだろうと思った。
「リュウノスケ、今日こそ、一緒に死にましょう」
「えー、もう少し一緒にいてもいいんじゃない」
旦那の目は据わっていた。あ、これマジのやつだ。
「これまでの日々は愉しかった、とても」
旦那はオレの方を見て、延長コードを持っている。
逃げる気は、起きなかった。
もはや、こうなる覚悟はとっくにできていたから。
「同じ地獄に行けますよ、きっと」
旦那は心中を心に決めている。
「大丈夫、旦那もオレもいいやつだから、きっと天国に行けるぜ」
「天国に?人殺し二人が?」
旦那は半笑いだけど、震える手で延長コードを握りしめている。
「死んだ脳細胞が天国の夢を見るんだって、きっと信じてるんだ」
震えている旦那を抱きしめて、背中をとんとんする。
「でも、それならば、その天国は同じ天国ではない」
「同じ天国に行けないのなら、同じ虚構に浸ろう」
旦那はその場に崩れ落ちて、オレに縋り、泣き始める。
オレは座って、大好きなひとを抱きしめて、優しく頭を撫でる。
お互いにコードを首に巻き付けて、引っ張る。
その瞬間に、オレは自分の首のコードを外して、隠し持っていた包丁を旦那の腹に突き刺した。
包丁を思いっきり引き抜くと、旦那は噎せながら血を吐いて、腹を抑える。
「なん、で」
「大丈夫、ただのサプライズだよ」
「私、は、リュウノスケと、死ねると、おもってたのに」
旦那の彩度の高いべっとりとした赤色は、言葉に絶するほど美しくて、オレにはもったいないくらいだった。
血液に砂金みたいなきれいな脂が浮いていて、神々しい。
「せっかくだからさ、旦那のハラワタの色、見てみたかったんだ」
「いやだ、リュウノスケと、リュウノスケと私は」
旦那はオレに刺されたというのにオレを抱きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしている。
「旦那のいない世界に意味なんて無いから、オレもすぐ逝くよ」
嗚咽混じりに、旦那はオレを抱きしめること以外に力を使えなくなっていく。
ゆっくりオレに体重を預けながら、血液が抜けて体温が下がっていく。
途切れ途切れになりながら、旦那は言葉を紡いでいる。
「愛して、いました」
「オレも旦那のこと、大好きだよ」
それを聞いて、安堵の笑みを浮かべながら、旦那の心臓の鼓動が止んだ。
オレも、同じ包丁で首の頸動脈を掻っ切った。
血が抜けて、意識がさーっとノイズに包まれて消えていく。
旦那がずっと飾っていた、枯れた花の事を思い出した。
きっと、その花も、天国の花畑で幸せに暮らしているはずだから。
死んだ脳細胞で、虚構の天国の夢を見よう。
どうか、ふたりに、あたたかくて、しあわせな、遺伝子に刻まれた、同じ夢を。
どうか、ふたりに、冬の日に感じるひだまりみたいな、あたたかな死を。
ばいばい、大好きだったよ、旦那。