ただでさえ月の無い暗い夜だというのに、街灯すら疎らな尚暗いスラム街の路地裏で刃と刃が散らす断続的な火花が、幽かに周囲の闇を照らしている。
一メートル先すらよく見えない暗闇の中で行なわれている斬撃の応酬は、戦闘訓練を受けている筈のバステト達でさえ目で追う事すらままならない。
人類がキメラに関する技術を手に入れて以来、人型もそうでないものも含めて世界は化け物だらけになってしまった。
しかし化け物が溢れている世界を見慣れたヒト達でさえ、このレベルの戦いを目にする事は一生掛かってもまず無いだろう。
そんな状況だからか、闇の中に潜んでいたバステトの内の一人がレッチェの後ろに姿を現した。
ガスマスクと猫耳が合体した様な特殊なゴーグルで顔が隠れている為、表情は見えないが狼狽えているのだろうという事は雰囲気でなんとなく察せる。
「レッチェ様、ご指示を」
するとレッチェは興味失ったように目の前の戦いから視線を外して、背後のバステトに振り返った。
「……引き上げましょう、これ以上ハッピィ様の道楽に付き合うのは時間のムダです」
普段は滅多に感情を表に出す事は無いバステトの隊員も、この二人の戦いぶりに動揺を隠せない様子だったらしく、レッチェの指示に対してつい口を挟んでしまう。
「ど、道楽ですか!?……お言葉ですがアレは余りにも……!」
「では、一応本人に聞いてみましょうか」
「……は?え?今ですか!?」
落ち着きすぎているレッチェの態度にバステトは呆気にとられるばかりだ。
そんなバステトの事など意に介さず、レッチェは口元に手を添えるとよく通る大きい声でハッピィに問いかけた。
「ハッピィ様!我々はもう帰りますけど、よろしいですね?」
すると少し間置いてから、相変わらずのとぼけた調子の返事が聞こえてきた。
「おーう……先に帰ってお風呂沸かしといてくれーい!」
それを聞いたレッチェは後ろを向いて改めて指示を出した。
「……はい。では撤収を開始して下さい」
「は、はぁ……」
バステト達も一応は納得はした様子だったが(いいのかな……これ?)と困惑を隠しきれない様子だった。
それを見かねたレッチェが付け加えるように言った。
「……心配しなくても、あのヒトならどうせ大丈夫ですよ」
しかしレッチェが相変わらずの鉄面皮だった為、部下はそれが本気なのか冗談なのかわからないままだった。
・・・
一見拮抗しているように見えるプリデールとハッピィの戦いだが、実はプリデールは徐々に追い詰められていた。
ジャックから受けた毒で反応の悪い体を無理矢理に動かしている為に消耗が激しく、まだ攻撃は受けていないもののハッピィの振るう二刀を凌ぐだけでプリデールの体力は目減りしていく。
このまま戦い続ければ、じきに体力の限界が訪れてプリデールは負けるだろう。
対するハッピィはやや防戦気味に立ち回っているが、プリデールの雷光の様な怒涛の攻勢を受けて尚、その表情には幾分かの余裕が見て取れる。
ハッピィはおそらく既にプリデールが消耗している事に気付いているのだろう。
少し待てば勝利出来るならば慌てる道理は無い……しかし何故かハッピィはプリデールに何かを期待している様子だった。
「どうしたどうした?腕が鈍ったんじゃないか、インビジブル?」
煽っている様にも聞こえるが、ハッピィは事実しか口にしていない。
「……買い被りすぎよ」
内心の焦りからか先に仕掛けたのはプリデールだった。
プリデールはリスクを覚悟の上で、大胆にもハッピィの方へ大きく踏み込んだ。
「ほほっ!」
当然ハッピィがその機を逃す筈も無く、片手で刀を横に薙いだ。
踏み込み過ぎた故にプリデールは防御が間に合わなかったが腕に傷を負いながらも斬撃を無理矢理弾いた。
プリデールは更に踏み込んで短剣で突きを繰り出して間合いを詰めようとする。
しかしハッピィはそれをさせまいと、もう一本の刀を袈裟切りの形に振るった。
(なるほどのぅ……ゼロ距離なら刃の長いこちらの刀が不利……白兵戦の基本ではあるが、このわしに対してそれを行える技量……面白いのぅ!)
しかし戦いは武器だけで行うものではない。
ハッピィは剣では無く強烈な前蹴りをプリデールの腹部に突き刺す様に放ち、そのまま蹴り飛ばす事で強引に距離をとった。
「ならばこうじゃ!」
「……ッッ!」
蹴りがプリデールに命中し、結果二人の距離は離れた。
プリデールが離れたのを確認してから、ハッピィは剣先を自分の鼻の高さまで跳ね上げて構えを正すと大きく息を吐いた。
チャンスを逃したように見えるプリデールだったが実はこれは思惑通りだ。
(距離を取って体勢を立て直す……それを待っていたわ)
小さな賭けに勝ったプリデールは更に大きな賭けに出る事にした。
なんと両手に持っていた短剣をハッピィへ向かって思い切り投擲したのだ。
しかも短剣は何かの力を帯びて淡く発光しており、通常の投擲では到達し得ない恐るべき速度で一直線にハッピィへと迫る。
「ぬうッ!?」
これには流石にハッピィも虚を突かれ一瞬反応が遅れたものの、それでも冷静に投擲された二本の短剣を刀で弾く。
ハッピィが短剣に気を取られた一瞬の隙を狙って、今度はプリデール自身が投擲した短剣と同じように淡く発光した状態で突っ込んできた。
しかも両手にはいつの間にか新しい短剣が握られている。
遂にプリデールは自分の短剣が有利なゼロ距離を取ったのだ。
「これでおしまい」
「わしをここまで追い詰めるとは……天晴れじゃインビジブル!!!」
その時、ハッピィがカッ!両目を見開いた。
大きく開かれた両目には、こちらも得体の知れない青い光が揺らめいていた。
今、ハッピィの開かれた目には世界の全てが停まって見えていた。
これは実際に停まっている訳ではなくハッピィの特殊能力(アブノーマリティ)『プロヴィデンス(天帝)』でそう認識しているだけだ。
プロヴィデンスの力は、例えば交通事故の瞬間に急に周囲がスローモーション感じるといった脳の誤作動『タキサイキア現象』を意識的に起こす力だ。
ハッピィの場合『目を大きく開ける』という行為が能力発動のトリガーになっている。
今のハッピィには、常人には回避はおろか目視すら不可能なプリデールの攻撃すら、欠伸が出る程遅く見える。
ハッピィはその超スピードの攻防の最中、実に優雅にプリデールの特攻をかわし、死角から強烈な峰打ちを食らわせた。
二者が交差した一瞬で全てが終了し、戦いは決着した。
二人は固まったまま一呼吸の間ピクリとも動かなかったが、やがてハッピィの方が片膝を地面に付いた。
プロヴィデンスの使用は代償として、使用者の脳に強い負荷を掛けるのだ。
「ほっほっほ……なかなかに愉しかったぞぃ♪」
一方プリデールは声を上げる事も無く静かに地面に倒れ、そのまま起き上がる事は無かった……が、しかしプリデールの攻撃はまだ終わっていなかった。
「ぐふっ!」
油断していたハッピィの背中に、何処かから飛来した二本の短剣が突き刺さる。
「時間差じゃと……!?まったく、やってくれるわい!」
ハッピィはそのまま先程撤収していったレッチェに連絡して迎えに来てもらう事にした。
連絡を受けたレッチェは通信ごしに息の上がったハッピィの声を聞いて、大急ぎで引き返して来た。
「ハッピィ様!ご無事ですか!?」
「だいじょぶじゃよ~」
「……直ぐに医療班を手配します。それと、残念ですが今夜は入浴は控えた方が宜しいかと」
「そうじゃなぁ、残念じゃがゲームはわしの負けじゃな……ほれ、インビジブルも介抱してやれ。約束通りヤツが何をしていたのかも不問にしようではないか。ほっほっ…イテテ!」
「……負けたというのに随分と嬉しそうですね?」
「わしが負けるなんて滅多にない事じゃからのぅ、楽しくてたまらんわい」
「……ハァ、無茶をする前にご自分の立場をよく考えて下さい、まったく……」
応急処置をしているレッチェが問いかけても、ハッピィは曖昧に笑うだけだった。