償いの日以降、都市部の激減に伴って、世界中のどこからでも夜は星がよく見えるようになった。
ビジネスホテルの一室で一人椅子に腰掛けて本を読んでいたプリデールは呟いた。
「さて……そろそろ始めようかしら」
彼女が本を置き立ち上がると、先ず少しだけ開けていた窓を閉め、そのまま静かな足取りで部屋の出入口のドアへと向かった。
ドアノブに手を掛けたプリデールの姿が次第にぼやけていく……するとそこには最初から何もなかったかの様にプリデールの姿が消えてしまった。
誰も居ない筈なのに、静かにドアが開き、そして閉じる。
本当に誰も居なくなった部屋には、静寂だけが残された。
・・・
ビッグスカボロウに立ち並ぶ高層ビル群の内のひとつ。
そこらへんのビジネスホテルとはわけが違う最高級、ゴールドマンホテルの最上階のそれもスウィートルーム。
そこでいかにも頭の固そうな初老の男が一人黙々と机に向かって仕事をしていた。
スウィートルームなんて取ってる位なので男がそれなりの地位に居る人間であろうことは想像に難くない。
彼が熱心に纏めている資料を覗いてみると、どうやらビッグスカボロウの治安に関する事らしい。
傭兵都市グラングレイの傭兵に対する依存が強い現状の制度を見直して、ビッグスカボロウの自衛力を高めるとか大体そんな内容だった。
せっかくの一流ホテルのスウィートルームだが、男にとってはもう見慣れてしまっている景色なのか、美しい夜景を気に留める様子も無く黙々と作業を続けている。
部屋にキーボードを叩く音だけが響く時間がしばらく続いた後、ドアをノックする音が部屋に響いた。
男が軽食とコーヒーを頼んでおいたのだ。
「……ルームサービスをお持ちしました」
「ああ」
部屋の中に入ってきたのは部屋の外を見張らせているSPの一人で、ホテルのスタッフから受け取った食事を男の下まで持ってきたのだ。
男は適当に返事をして、キリのいい所まで作業を進めたら休憩にしようと考えていた。
それから程なくして、休憩に入った男が熱いコーヒーを啜っていると、不意に何かの花の香りが鼻腔をくすぐった。
不思議に思った男が部屋の中を見回して見ても、部屋のどこにも花は飾られていないし、自分が何か香りのする物を持ち込んだ心当たりも無い。
(新しいサービスか……?)
そんな風に考えて男が再び仕事に戻ろうとしたその時、男は見えない何かに口を押さえ付けられると同時に心臓を一突きにされ、一瞬の内に絶命した。
悲鳴を上げる暇も、違和感を感じた時にもっと警戒していればという後悔すら出来ないまま、絶命した男は静かに机に突っ伏す様な体勢をとらされると、それきり動かなくなった。
部屋の中には血の出ていない男の綺麗な死体だけが残されていた。
・・・
煌びやかな摩天楼の光も、ビッグスカボロウの全てを照らしている訳では無い。
人の集まるビッグスカボロウには必然的に激しい競争と格差が常に存在し、競争に負けた落伍者は貧しい生活を強いられる事になる。
ビッグスカボロウに四つある地区の内の一つ、セージ地区は全部で87番街まで存在していて、50から上の番地は俗にスラム街だと言われている。
月も出ていない深夜の64番街の通りは不気味に静まり返っていて、粘つくような濃い霧が出ていた。
まともなビッグスカボロウの住民ならば、こんな深夜に治安の悪いスラムに近づこうとは思わないだろう。
そんな64番街の街灯もロクに設置されていない真っ暗な通りに場違いな人物が虚空から姿を現した。
真夜中でも目立つ桃色のドレスを身に纏ったその人物はプリデールだ。
彼女は何事も無かったかのように平然と規則的な足音を立てて歩き始めたが十分程歩いた後、不意に足を止めた。
プリデールが止まると、小さな足音が消えて辺りは再び静寂に支配される……と思ったのも束の間、丁度プリデールの進行方向にある地面から何か強い力で叩かれる様な金属音が炸裂し、続けて何かが地面から飛び出してきた。
もし今が昼間だったなら、最初の金属音はマンホールの蓋が吹き飛ばされた音で、飛び出してきたのは真っ黒いボロ切れをマント代わりに纏った犬頭痩身の大男だというのが確認できただろう。
飛び出してきた黒犬の男はプリデールを舐める回すような視線で見つめた後、真っ黒な顔面に白と赤の亀裂を作った……歯を剥き出しにして嗤ったのだ。
そしてサイレンの様なやかましい声でこう言った。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!こんな所にいたらァ……あぶないよお!オジョーサァン!!」
「…………はぁ」
プリデールは大きくため息を吐くと無言で黒いナイフを二本、キャスターから取り出して構えた。
まるで雄叫び(ウォークライ)の様に嗤いながら、それが合図と言わんばかりに突如現れた狂人はプリデールに襲い掛かった。
プリデールは面倒臭そうに、また溜め息を吐いて隙の多い狂人の攻撃を最小限の動き躱すと、あっという間に狂人の背後を取った。
そして狂人の体はプリデールのナイフの斬撃で上半身と下半身が真っ二つに切断された。
「ヒャヒャヒャヒャ!………ヒャ……ゴボァ……!」
狂ってしまって、もう既に痛覚なんて存在しないのか、狂人は自分の体を真っ二つにされても尚、嗤うのを辞めようとしない。
どちゃっという生々しい音と共に狂人の上半身が地面に落下すると、そのまま動かなくなった。
「………………」
夜のスラムに再び静寂が戻る。
プリデールはまるで何も無かったように、しかし今度は足音を立てないように……再び歩き始めた。
狂人の体から流れ出る血液が深夜の静寂に丸い血溜まりを作る。
暗かった事もあってなのか、プリデールは『自分が殺した相手に血溜まりが出来る事』が不自然な事だという事に気付かなかった。
さらに不思議な事に血溜まりはそのまま歩き去ろうとするプリデールの後を追いかける様に一直線に伸びてゆく。
それは明らかな指向性を持った『動作』だった。
「いてぇよぉ…………」
既に上半身だけになった狂人が呻き声を上げると、プリデールが足を止めた。
「…………いてえよお!アハハハハハハハァ!」
上半身だけになった狂人が再びけたたましく嗤うと同時にプリデールは自分の足に違和感を感じた。
すぐに足元を見ると、狂人の血液がプリデールの足に巻きついて拘束しているのが見えた。
咄嗟に血液をナイフで切断してみても、切った端からまた繋がってしまってキリが無い。
「ヒャーッハッハッハ!これで逃げられないナァ!?」
相変わらずプリデールは別に慌てた様子は無いが、多少の苛立ちがその声色から感じられる。
「……いい加減にうるさいわよ、貴方」