かなり中は混んでいたが、私と翔太はゆっくりと回った。絵画の本物を観たことが、私は実はほとんどない。中世までのものはさほど惹かれなかったが、それでもシェイクスピアを題材にした近代以降の絵画には目を奪われた。神々しいほどに美しい絵の数々。とくにシェイクスピア『ハムレット』のオフィーリアを描いたものがとても多い。それも、オフィーリアの死について。美を極めた死の数々。私は興奮する。それでいて、死など美しくはないことを誰よりも知っている。いや、もしかしたら乙女の死は美しいのかもしれない。でも、まるで苦しんだ跡がない。オフィーリアは『ハムレット』の題材に最適だが、多すぎはしまいか。劇中のオフィーリアはもっと影の薄い存在だ。
それでも、とくに私はウォーターハウスのオフィーリアに惹かれた。
そこでのオフィーリアは川の中にいるのではない。しかも仰向けの少しねじれた顔貌は、確かに死んでいると感じさせる。何か無念、いや悲しみを湛えて恨みに似たものまで漂わせている。
私の好みのオフィーリアならこれだ。
ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリアは半ば水没しているが、何か私には空虚に見える。花たちや風景は美しいが、魅力を感じない。実際のシェイクスピアのイメージはこのような感じだったのかもしれない。
私はそっと視線を外して芙美子を見た。イギリスの文学はどこかおどろおどろしい。芙美子は解説文を丹念に読んでいる。きっとあの子の趣味に合うはずだ。
翔太は無口に私の歩きに合わせて進んでいく。それでも絵はじっくりと観ているようだ。退屈している様子はない。私は軽くがっかりした。退屈した翔太が私の手を取ったり、逆に蘊蓄を語りはじめたりするのを期待していたから。今のところ翔太は俗物ぶりを発揮してはいない。
それでも、騙されるものか。赤根眞理子と芙美子の父親の息子なのだ。反吐がでるような本性を持ち合わせているに違いない。
翔太が手を握るなりしたら、これこそチャンスなのに。翔太は私の容姿に関心がないのだろうか。微かな不安が首をもたげる。
美術展は楽しいものだった。少なくとも私は堪能した。その後、私は誘った。
「とてもよかった。一緒に来てくれてありがとう。あなたは?」
「うん。よかった。こちらこそ、誘ってくれてうれしかったよ」
「ね、この後美術館のカフェに行きましょう」
翔太はうれしそうな顔をした。しかし何の邪気もない。
「もっと語り合いたいよね。今の時間は空いてるかな」
そういって、さっさと歩きだす。
私は迷った。自分の方から翔太に軽く触れて反応を見たらどうか。でもかろうじて思いとどまった。
私は歩くのが早い翔太の後を追った。
カフェはとても瀟洒で、私は翔太と向かい合わせに四人掛けの席に着いた。メニュー表を眺めるが、翔太はまだ先ほどの余韻に浸っているようだった。
「私はロイヤルミルクティーのホットにするわ。赤根さんは?」
あまりに翔太が考え込んでいるので、私は急かそうと声をかける。それで我に返ったらしい翔太はにっこりとして、
「僕も日野さんと同じものを」
と返事をした。
店員に注文をすると、翔太はテーブルの上で両手指を組み合わせた。
「日野さんはどの作品が良かった?」
真面目な顔で尋ねてくる。
「私、魔女を描いた絵が良かったわ。だって」
つい言葉にしてしまった。
「魔女のような人を知ってるの。そっくりよ」
これは失言だった。そう思いつつ言葉にしてしまった。両手指を組むのは赤根眞理子の癖だった。
「へえ、君は変わってるね」
そう言いつつ、
「でも、本当にシェイクスピアが好きなんだって分かるよ」
「ええ」
「僕はミレイのオフィーリアは良かったな」
無邪気に語る翔太。
「水辺の花々に囲われて、まるで」
ひとつ呼吸を置く。
「まるで君のようだったよ。日野さん」
私は沈黙した。あの虚ろな表情が私のようですって?
「そう? 私はウォーターハウスの方が」
「そうだね。ウォーターハウスのオフィーリアにも似ている」
翔太は笑ってみせた。
「いえ、そういう意味ではなくて、私はあのオフィーリアの方が好き」
「そう、あれも美しかったね」
この男はついに本性を現し始めたのか。私の心は暗く弾んできた。
「あなたは面白い方ね」
「え、どういう意味」
「言葉通りの意味で。楽しい。だってシェイクスピアの話がこんなにできるんですもの。ああ、私も文学部がよかったかな」
翔太は急に考え込んで、とんでもないことを言う。
「学部を変えれば?」
「え」
「文学部に転入するんだ。法学部なら難なくできるはずだよ」
呆れてしまった。何て勝手なことを言い出す男だろう。
「いえ。さっき言ったことは嘘ではないけれど、法学部の政治の授業も面白いのよ」
「君に合っているの」
「ええ」
「そうか」
翔太は残念そうに溜息をついた。
次第に焦りが出てくる。芙美子との打ち合わせでは、もう今日にでも翔太と関係を持ってもよいくらいの話だったが、肝心の翔太にその気配がない。それでも、私に興味があることだけは確かだ。
気が付くと、カフェ内の円柱を挟んだ斜向かいに芙美子がいた。一人図録を読んでいるようにふるまっている。人の目など気にしたことがない私が、芙美子の目を気にしている。そのことに気がつくと癪な気分がこみ上げてきた。同時に私への欲望を見せない翔太に苛立つ。
何てこと。こんなに手こずるとは。