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第21話

「それでね、エンジェルと逃避行していたテスが最後ストーンヘンジという異教の……」

 夢中で話す翔太。私は相づちを打ち、熱心に聞いているよう完璧にふるまいながらも、蜘蛛の巣を張り巡らせることに気をとられている。梅雨の中日だった。雲間から強い光線が降りている。今年の夏も酷暑になりそうだった。

「あの、よかったら」

 私は遠慮がちな風に切り出す。

「今度『英国絵画史』という美術展が開かれるの。横浜なんですけど。英文学に興味があるから、ぜひ行きたいと思っていたところなの。日曜日に一緒に観に行きませんか。その方が一人で行くより数倍楽しめそうだもの」

 二つ返事で快諾するかと思っていたが、翔太は少し迷う。

「ごめんなさい。急に……それに興味があるかどうかも分からないのに」

「いや、大ありだよ」

 翔太は少しムキになって答えた。

「そうか。絵画を見ればより当時の雰囲気も風俗もよく分かるし、すごくいい話だ」

「何か別の予定でも? 先に延ばしても、まだやっているから」

「いや、……僕の家は修道院の管理を任されていてね、その、親のない子たち、親に捨てられたり虐待されて親元では育てられないと判断された子たちを預かっているんだ」

 自分の眉に力が入るのが分かった。

「その子たちの楽しみにしている行事の日なんだよね」

「……そう」

 混乱しながら私は答える。私のいた頃はそんな行事など聞いたこともない。

「赤根君もお手伝いしているのね」

「大学に入ってからね」

「偉いわ」

「全然そんなのじゃないんだ。でも、あの子たちの落ち込んだような表情を初めて見たとき、僕も何かしなければと思ってね」

「あなたはクリスチャン?」

「違う」

 答えは意外だった。赤根眞理子は形式的には教徒だったから。

「僕が英文学を好きな理由は単に面白いからだけではないんだ」

 私など関係ないかのように翔太は言う。

「宗教観がいろいろに提示されているところにも惹かれる」

 それで分かった。『テス』に出てくるストーンヘンジという異教の祭壇。

「無理にとは言わない。私一人で行くから」

 すると翔太は驚いたような顔になり、

「一人で? それは悲しいよ。君のような人と観たら面白いだろうに」

 心がだんだんと沈んできて私は苛立った。

「私じゃなくても、別のいい人を」

「ありえない」

 真剣な目つきで言われ、この私でもドキリとする。

「君でないと。何とか調整するから」

 明らかに翔太の本音は私と一緒に行くことにあると踏んだので、私は今度は優しい声を出した。

「分かったわ。今度の日曜でも、その次でも、赤根君にまかせる」

 翔太は救われたように笑った。

 芙美子にはその夜に会って報告した。案の定にやりとしてみせる芙美子。

「うまく罠に落ちてきてくれてるのね。まあ、当然だけど」

 郊外のカフェは私たちの秘密の会合の場所となっている。

「もうあのお坊ちゃんはあんたに気があると見ていいわね。で、どう面白くするの」

 最適な方法。

 私は左の手のひらを見る。薄らいで目を凝らさないと分からないような傷跡。あの時の怒りと憎しみと恐怖は、その痛みよりも数倍も大きく私の心を抉った。私にとっての最適の復讐。何がいい?

 それから、私はずっと気になっていたことをここで聞いておきたいと思っていた。それを確認しなければ、芙美子の思惑を推しはかることは出来ない。

「赤根翔太は、あんたの腹違いの兄弟ということになるけど、あんた、本音はどうなの」

 芙美子は異様な目の輝きでもって答えた。

「やっと聞いてくれたのね。そう。あのお坊ちゃんのオヤジにうちの母はレイプされて、出来てしまったのが私ってわけ」

「そういうことになるわね」

 私は平静を装って言う。頭の中では私の勘と脳力を振り絞って、ひとつも見逃すまい、聞き漏らすまいと思っている。

「あんた、何のために生きてる?」

 思いがけない問いが芙美子の口から洩れた。

「少なくともあたしは、あんたよりももっと深い暗さがあるはず。ね、そうは思わない」

 背筋が冷える。

 お坊ちゃんの翔太とこの女がきょうだいとは到底信じられない。私は赤根眞理子への憎しみのため、芙美子は眞理子の夫・久信への憎しみのため、これから翔太に手の込んだ遊びをしようとしている。

 ごくりと咽喉が鳴った。

 美術展に行く日は、芙美子と示し合わせ、私が翔太に会うところから、同じ電車で横浜まで芙美子もつかず離れずでついてくることになった。もう、芙美子は当たり前のようにそう注文するし、私も拒絶しようとは思わなかった。

 英国絵画史を総覧的に展示する大規模展。私と翔太は下りの湘南新宿ラインを使って隣り合って座席をとった。

 翔太は相変らず育ちのよさそうな上質でシンプルなシャツ。私も派手過ぎない落ち着いたワンピース。一つだけ、髪をアップにしていた。翔太はそれに気が付いたが何も言わなかった。

 オンラインチケットをとっていたが、日曜ということもあり、美術館の入り口付近は混雑していた。私はわざとあまり話さない。翔太は手持ちのガイドブックに熱心さを装って目を落としている。

 英国の文学や美術は専攻している翔太の方がよく分かっているはずだ。私は聞き役に徹して、翔太を調子に乗らせていけばいい。

 美術展の看板の影には芙美子がいる。

 私は横目でそれを確かめた。

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