憎しみは何も生まないなんて言う人を私は信じられない。
だって、エネルギーを生み出すじゃないの。
負のエネルギーだなんて、言えばいい。
それを燃料にしてしか生きられない人間もいるんだ。
それは、間違ったことではない。
憎悪でこそ生きる!
そうでしょ?
憎しみを抱く方ではなく、抱かれるようなことをした人間の方が悪いに決まっている。
*
「ずいぶんといい雰囲気だったね」
芙美子からの電話に出ると開口一番彼女は言う。
「見てたの?」
私は苛立ちを隠しながら答える。
「ほら、あんたたちが仲良く座ってたベンチの斜め前にある渡り廊下、その窓からね」
「油断も隙もない」
私はため息をつく。
ベンチでは小一時間も話をした。
そこで聞きだしたことは──怪しまれないためとはいえ、翔太の文学にかける想いばかりだった。私は適当に、失望を味わわせない程度に相づちを打っていただけだが、翔太はほぼ有頂天に近かった。私とつき合うことに有頂天になる男は山のように見てきた。しかし、私と話すことに有頂天になっている男は初めてだ。白状すると私はかなり物珍しいものを見る想いで翔太を見ていた。
彼が専門で研究したいのはトマス・ハーディだということだった。日本ではメジャーどころの手軽な訳書が少ない。『テス』くらいは読もうと思えばすぐに読める。
彼はその『テス』でキリスト教、いやイギリスにおける宗教というものに関心を持ったらしい。かつ、英文学につきものの怪奇にも関心を持っているらしい。
私もそれは知っている。
そう、修道院で虐待を受けながら育った自分にとって、もはや宗教、とりわけキリスト教は自分の暗さの一部としてもはや切っても切り離せないものなのだ。
「ねえ」
改めて声音を変え、私は電話の向こうの芙美子に語りかける。
「何」
芙美子の声は電話だといつもにも増してきつく聞こえる。厳しく世間を拒否していることを隠そうともしない。それは相手が私だからか。
「ちょっと面白いと思うんだけど」
私は続ける。
「私もあんたも血に飢えた吸血鬼ってわけじゃないでしょう」
「何、仏ごころが出たの」
「まさか」
吐き捨てる。
「ただ殺すのでは面白くも何ともないと思わない」
「へえ」
「うまいこと、赤根翔太との関係は構築している。だから、面白い遊びでもっと翻弄したうえででも遅くはないでしょう」
「ふうん。確かにね。私は私の、あんたはあんたの憎しみがある。それだけの凄惨を嘗めてきた。そういうことね」
「そう」
私は自分で口元が緩むのをはっきりと感じとった。
芙美子との電話を切るとすぐに赤根翔太にLINEを入れた。実は赤根翔太には湯原花蓮の名ではなく、日野樹氷の名を伝えてある。こういった連絡の履歴を赤根眞理子に見られる可能性があるからだ。これまでも多くの男たちにこの名を使ってきた。縣教授はさすがに教授なので本名だったが。
「まるで芸名みたい。樹氷って変わった名だね」
それがむしろ話のきっかけになり距離を縮めることができる。自分は出身は山形で、そういう名前を付けられた、と。出身が山形らしいのは確かだ。眞理子が口を滑らせたことがある。しかしそれ以上は知らないし聞こうとも思わなかった。何にしろ、眞理子には近づきたくなかったから。
それでも何かと絡んでくるのがまた眞理子の耐えがたいところだった。
湯原花蓮という名前は本名かもしれない。
私は戸籍を調べることもできたが、していない。興味がなかった。
山形にちなんで、面白いので男たちに告げる名を樹氷とした。
何だか、冴え冴えとした美しさと清々しさが私には羨みを感じるものでもあったから、気に入っている。
日野樹氷名で送ったLINEにはすぐに既読がつき、返信があった。
『明日は4限後なら空いてるよ。文学の話ができる仲間ができてうれしい』
すっかり夢中になっているようだった。私はわざとらしくかわいらしいスタンプを送りかえした。
文学少女という、私にふさわしいのかふさわしくないのかわからないものに化ける。やっぱり白いブラウスあたりがああいうタイプは気を惹かれるだろう。
赤根翔太はいまだ私の容姿には何も言及しないが、何も感じないわけがない。そういうところもいかにも母親に守られて温室育ちをした男の気色悪さを感じる。
私は自分の政治学の授業などにあまり取り組めない気分のまま、翔太との待ち合わせに向かう。ちなみに私は大学の支給型奨学金(成績優秀者におくられるもの)を受けており、来年も持続したいとは思っているので授業には落ちない程度に出ている。奨学金は男たちに貢がせる手間ひまがかからないのがいい。
前回の文学部キャンパスのベンチで翔太は待っていた。私を見ると軽く片手を上げる。ごく自然な振舞い。何も疑ってはいないと思われる。
「待ったかしら」
すまなそうに私は言った。実際直前の授業は少し長引いていた。
「全然。でも来てくれないのかと心配になった」
馬鹿なお坊ちゃん。そういう言葉がどういう影響を相手に与えるのかということにさえ無自覚なのではないだろうか。