「芙美子が私に近づいた理由なの、それが」
気のない調子で、しかし戦くような緊張を持って私は尋ねた。
「それだけじゃないけどね」
芙美子はかわしたのだと思った。私は話題を元に戻した。
「牛丼屋でずっと働いてたの」
「ううん。いろいろ。でもさ、あの田舎町にずっといるのってやっぱり苦痛で、とうとう上京しちゃった」
「いつ」
「今年の二月」
最近ではないか。それからあの高級なお店に就職するのはなかなか大変だったのではないか。いや、言うことを鵜吞みにはできない。どんな背景があるか分かったものではない。何しろ、探偵を使ってまで私を探っていたのだから。
それでも、私は芙美子のたどったであろう決して楽ではないこれまでの道のりを思わずにはいられなかった。あの修道院の子たちの大部分がたどる道のりと似通っている。高校まであそこにいる人は稀だ。大概が中卒で出ていくか、高校進学を機に出ていって、働きながら学校に通うか。
いずれにしても茨の道だ。なぜいまだ世間は、人間をその実力ではなく出自や生い立ちで決めるのだ。修道院の子たちが自由を手に入れる手段は極めて限られている。
あの赤根翔太を思い浮かべた。
何の苦も無く離れで育ち、愛され、大切にされ、今は優雅に英文学なぞを学んでいる。それだけで私の胸は引きちぎられそうだ。
芙美子はお酒を注文しはじめた。意外だった。それが、幼少期を知る人間がお酒を飲むことからくる違和感だと初めて気づいた。
「けっこう飲むの」
「たまにね。でも酔い潰れたりはしないよ。正体なくすような真似は」
私と同じ。どこに敵がいるか分からない。これは自分の犯罪の露見のことを想定しているのではない。むしろ、育ちにあった。どこに暗い穴が掘られているか分からない。ちょっとでも気を緩めるとはまってしまう。幾度となく学習して身につけたものだった。
「私も飲もうかな。日本酒にする」
私たちはその後あまり言葉を交わさないまま飲みつづけた。
照明の暗い店。始めは芙美子のことを根掘り葉掘り聞きだそうと思っていたのだけれど、その気は早々に消えてしまっていた。
たまにはこういうお酒もいいじゃない。
男を殺すために飲む酒など美味しくはない。人は私を、いや私と芙美子を殺人鬼か何かだと思うかもしれないが、そうではない。何と形容すればいいのか。そう、魂がいやおうなくそちらに向かわせる。身勝手だという人間は、私たちと同じ境遇と体験をしてから同じ口で言って欲しい。
私も芙美子も、心の傷も体の傷もたっぷりと得ていて、その傷跡は今でもぐちゅぐちゅと化膿しているのだ。
次の火曜日。
私は英文学の講義に行った。翔太が先週と同じ場所にいるのを、その背中で確認した。私はまっすぐそこに歩いていき、隣に座った。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
翔太は思いがけず笑顔を見せた。
「シェイクスピアはまだ先だね」
「ええ。でも面白いわ」
そう言って私は鞄から教科書を取りだした。
「重い教科書、持ち歩く人ってあまりいないんだよ」
横目で見て翔太が言う。
「そうなんですか。でも受けたくて受ける講義ですから」
私は答えて、今度は翔太の方をまじまじと見た。シェイクスピアを論じたページを開いていた。それを無視して私は問う。
「あの、お名前聞いてもよろしいですか。よかったらLINEくらい」
「ああ、そうだね。そうしよう」
こうして名前と、無事連絡手段も確保した。
今日はじっとりと曇った天気で、昼間なのに教室内は暗めだ。窓から見える黒や灰色の雲が厚く何層にもかぶさってくる。
「ふだんは何を専攻しているの」
翔太が訊ねる。
「行政学が中心。ゼミになったら本格的なものになるわ」
「君が、何で法学部政治学科なんて?」
「おかしい? ふふ、単純に偏差値のいちばん高いところにしたかっただけなの。本当は文学部の講義の方が興味ある。まあ、ここの文学部は落ちちゃったけど」
チャンスだと思った。
「赤根さんは」
「呼び捨てか君付けでいいよ」
「赤根君は」
「かこつけた訳じゃないけど、この間の『ジェーン・エア』とか、そういうのにも興味あって。仏文と迷ったんだけど」
「そうなの」
「ユーゴーも好きで」
「『レ・ミゼラブル』」
「あれは面白いね。君も読んだの」
「ええ、19世紀ヨーロッパ文学は大体」
「ドュマ・フィスも好きなんだ」
「『椿姫』」
「すごいじゃない。何で君が文学部に入らなかったんだろう」
「言ったでしょ。落ちちゃったのよ」
講義に入った。講義はそれなりに興味深い。英連邦の歴史に触れていた。
「この後、僕授業ないんだ」
ついに翔太が切り出した。
「文学部でもこんなに話の合う人は少ないんだ。少し話さない」
下心の感じられないのが不思議だった。今日も私は完璧なはず。
「楽しそう」
私は即座に答えた。
文学部のキャンパスの大木の下にあるベンチに並んで腰かけた。
私は心臓が少しずつ強く打ちはじめるのを感じた。