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第17話

 『ジェーン・エア』は先日の芙美子との会話からとっさに出たこと、シェイクスピアを好むのは実際にそうだから。

「へえ」

 明らかに翔太は興味を示した。

「『ジェーン・エア』は僕も興味深く読んだよ」

 どうやら翔太は本気で英文学を好んでいるらしい。

「興味……どういう興味ですか」

 私も軽く食いつく。実際興味はあった。自分の母親が同じくらい劣悪な施設を運営していることを知っていたらどう思うのか。

「主人公、ジェーンの芯の強さに驚いた。あんなに酷い育ち方をしながらも、自分の価値観をきちんと持って、それをつらぬく女性」

「酷い育ち方……」

 確かに物語の最初はジェーンの生い立ちとも言うべきおばの家での冷遇と、押し込められた修道院の劣悪さ、そこでの神々しいまでの友情とが描かれている。しかし、軽くあの作品を読んだ人は、まずはロチェスターとのその後のロマンスの行方や若干怪奇じみたその顛末、妻帯者であることを知ったのちのジェーンの行動の方が興味を惹くのではないか。

 要するに私は、翔太の『ジェーン・エア』に対する目のつけどころに軽い驚きを覚え、そう、関心を抱いたのだ。

 教授が入ってきて会話は中断した。静かに熱心に翔太はノートをとっていた。やはりまじめに英文学を好んでいるらしい。

 授業のあと、翔太はすぐに教科書や筆記具を鞄に収め立ちあがった。私は一瞬迷った。もう少し話をしようか、今日はこれまでにしようか。そこで翔太が私を見下ろしながら言葉を発したので、それにしたがうことにした。

「来週も来るでしょ」

「ええ」

 夜になって芙美子から電話が入った。首尾を聞くためなのは分かっていた。

「どう? 例の奴には会えたの」

「うまくいった。ふつうに授業に出ていた。隣に座って面識を持つところまでは」

「他には?」

「ううん。特には」

 先日芙美子と交わした『ジェーン・エア』の話題には触れたくなかった。

「何も話さなかったの」

「他学部聴講で来ているってことくらいは話したわよ」

「それだけ?」

「だって、今回は慎重にやりたいから」

「ふうん」

 芙美子は要領を得ないという意味をその相づちに込めた。しかし続けて、

「次は」

「来週」

「ずいぶん先ね」

「だから慎重に」

「もう少しないの」

 考えれば、文学部のキャンパスに行って、偶然を装ってまた会うこともできる。理由などいくらでもでっち上げられる。

「考えとく。でも怪しまれたら水の泡だから」

「そうして欲しい。あんたのことは絶対に覚えているはず。向うから声をかけてくるかもね」

 芙美子の声を聞きながら、私は左手にほんのわずか、うっすらと残る剣山の棘の傷跡を探していた。あの時の憎悪を再度胸にきざみながら。



 憎しみは何も生まないなんて言う人を私は信じられない。

 だって、エネルギーを生み出すじゃないの。

 負のエネルギーだなんて、言えばいい。 

 それを燃料にしてしか生きられない人間もいるんだ。

 それは、間違ったことではない。

 憎悪でこそ生きる!

 そうでしょ?

 憎しみを抱く方ではなく、抱かれるようなことをした人間の方が悪いに決まっている。



 音楽鑑賞サークルを退部した日の翌日からは、私は大学に、いい服装で行くことにしていた。一般の学生から浮かない程度に、でも少し裕福な品のいい服装、もちろん髪型も鞄もアクセサリーも。大学内をまずはターゲットとすることにしたので、かえって悪目立ちしない方がいい。

 うまく紛れ、たとえば翔太のような人物には同等の育ちの人間だと思わせるくらいがいい。

 また、怪しまれないように何人かの友人を作った。女性の、同じ授業に出ているような、いろいろな意味で当たり障りのないような数人。気の良さそうな子たち。お昼を一緒に食べるくらいには仲良くなっていた。

 福山亜美はその一人で、語学のクラスメイトだった。もともと明るくはきはきした感じの亜美なので、さりげなく近づいていくつか会話を交わすだけで親しい関係になれた。亜美はもともと交遊が広いので、そのつてで亜美と同じ英語サークルに入っている鈴木優香、井上真理以とも仲良くなった。仲良くといっても、昼休み時に同じ場所──カフェテラスやラウンジに集まって、一緒にお昼を食べるくらい。授業が一緒なら隣に座る。そのくらいの距離感が好都合だ。

 彼女らのおしゃべりはたわいもないものだった。単位のこととか、新しいお店のこととか、彼氏のこととか。亜美と真理以はすでにサークルで恋人を見つけている。優香は独り身のようだが、そういう話には一番熱心に口をきいた。私は穏やかな表情で、口数少なく、しかし否定の気配はいっさい見せずにそこにいた。本当に、こんなにいい隠れ蓑をなぜ今まで試していなかったのだろう。

 火曜日。そろそろ陽射しがかなりきつくなる時季だった。私たちは日傘をさしてキャンパスを歩いた。外にある女子学生に人気のお店に昼食をとりに行くつもりだった。そこで偶然に翔太に出くわした。門を出たところ、翔太は門を入るところ。

「あれ」

 翔太は眩しそうに手庇をして、私の方に振りかえった。

「この間の」

「あ、偶然ですね」

 私は晴れやかに笑ってみせた。周囲の三人の女子がにわかに興味津々という気配を漂わす。

「明日の授業はまた来るでしょ」

「ええ、そのつもりです」

 交わした会話はそれだけだった。翔太が去ると三人の女子は私を囲むようにして質問してきた。

「今のは誰?」

「え、誰だろう?」

 私は戸惑ってみせながら答える。名前は知ってはいるが本人からは聞いていない。

「誰だろうって?」

「私、文学部の講義にも興味があって、他学部聴講に行きはじめたの。その時に知り合った人。でも、たまたま近くに座っただけで名前もまだ知らないのよ」

「まだってことは、これからは知るのね」

「そう、ね」

「繊細で優しそう、いかにも文学部男子って感じでいいわぁ」

 優香は自分のことのように喜んでいる。

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