「探偵の力なんて借りたくない。だって」
そこで一呼吸置く。
「私たち、仲間でしょ。二人でやればいいのよ」
今度は芙美子がしばし沈黙した。
「いいよ。本気なのね、分かった」
私は芙美子に会う算段をつけた。
音楽鑑賞サークルには急速に興味を失って、私は退部届を出した。その時の佐久間のバカみたいな表情ったらなかった。とり逃がした魚を見る表情。その後佐久間に、また食事でも、と誘われたが固辞した。佐久間はそれ以上は迫ってこなかった。私がまた色の褪せたシャツを着ていたからだろう。
退部届を出したその足で、大学を出た。すぐに地下鉄の改札を通り、ずっと遠くまで乗った。芙美子の指定した郊外の駅に着く。一つしかない改札の前で芙美子は待っていた。
駅前は閑散としていたが、小さなファミレスがあった。
そこで私と芙美子は三時間ほど時間をつぶした。それから私が先に出て、芙美子は遅れて出ると言った。
心なしか私は、心が弾んでいた。見知らぬ(幼児期しか見たことのない)赤根翔太。その顔を拝むのが楽しみでならない。
写真の赤根翔太は、確かに眞理子の血を引いていた。母親似だ。赤根眞理子に夫がいたかどうかは知らない。見たことも聞いたこともないからだ。あの離れに行くことは禁じられていたし、翔太が修道院の方に現れたのを見たのもあの剣山の夜だけだった。
修道院では赤根がまさに神だった。気に入らないとみなされると、学齢に達しない子どもたちはすぐに虐待を受けた。
小学校に上がると、目に見えるような虐待はぴたりとなくなる。けれど、満足な食事もできず、冷暖房もろくになかった。夏は地獄の火焔の中にいるよう、冬はまさしく凍て付くようだった。テレビもない。学校で初めてそういうものを知ることになる。本もしかりだ。私は小学校に上がると、学校の図書室でむさぼるように本を読んだ。高学年になると、市営図書館に通うようになった。
学年が上がるごとに、私は眞理子に疎まれる度合いが強くなっていったような気がする。私が眞理子を激しく憎んでいたのは言うまでもないが、その態度によるものだけでもなさそうだった。
今ならはっきりわかる。
私と自分の息子を比べていたのだ。
私の成績は常に学年一番だった。眞理子の息子は私立に通っていただろうから直接の比較にはならないが、私の方が上だったのは間違いない。
眞理子から跡の分からないように加えられた虐待の数々を思い出す気にもなれない。ただ一つはっきりとしているのは、眞理子はことさらに私を無価値化しようとしていたということだ。
「のろま」「ぐず」「頭が悪い」など、幾度も浴びせられた言葉で、そのたびに一晩中倉庫に閉じ込められたこともあった。
すべてはバカ息子を思ってのことだったのだ。
その赤根翔太を拝むことができる。それだけでも口元が緩む。光の眩しい日だが、その光が真っ黒く見えることもあるのだ。
私は赤根翔太の学部学科を教わり、大教室での授業に潜り込むことにした。翔太がとっている授業か否かまでは分からない。が、可能性は高い。だめなら他にも似たような授業を探して潜り込む。三回目でようやく私は赤根翔太に遭遇することに成功した。
半袖の品のいいシャツにコットンのカーディガンを羽織っている。銀の細い縁のメガネをかけて背が高い。髪はゆるいウェーブ。あの日見た子どももゆるい髪型をしていたから、きっと天然だろう。
その顔を見て、一般には好かれる、いや憧れさえ抱かれる男だろうと思った。優し気で、清潔で、きちんとしているのが伝わる。服装の乱れもないし、控えめで品のいい鞄を横に持ち、いかにもいい育ち方をした風なのだ。
私は思い浮かべる。
この人が幼い頃、母屋という名の離れでどんなに大切に育てられていたかを。傍らの修道院内の施設では、幼子が手に剣山を握らされたり、性的な悪戯をされたり、飢えに苦しんで空想のお菓子やお料理を食べていたのだ。
私の生まれながらの美貌は奇跡としかいいようがない。
大概の子たちは、子どもとも思えないような乾燥した艶のない肌をしていた。そして義務教育が終わるとすぐに、逃げるようにこの施設を出ていった。神への憎しみを奥底に抱いて。
私はたまたま恵まれた容姿と頭を持っていたから、今こうしてここにいる。それでも、高校時から身を切る想いで一人生きてきた。男を知り、男を利用し。
そんなものとは別世界を生きてきたお坊ちゃんが赤根翔太だ。
彼は一人で階段教室の右端に座った。私はあとからその左横に入って腰かけた。翔太は気にかけるでもなく教科書を出している。私は鞄の中身を机の上に出してから「あ」と小さくつぶやいた。
「あの」
ささやき声で翔太に声をかけた。翔太は無視している──と思うと、ワイヤレスイヤホンが耳についていた。私は軽く手を伸ばし「ごめんなさい」と声をかける。気づいた翔太が耳からイヤホンを外した。
「ごめんなさい」
私は二度言う。
「今日、テキストの何ページからですか」
翔太は少し驚いた色を見せてから、開いていた教科書のページを前に繰る。
「185ページの章からですよ」
「そう。ありがとう」
「前回出られなかったんですか」
食いついてきた。私は内心のうれしさを噛み殺して遠慮がちな風に言う。
「いえ、実は他学部生なんです。この授業に興味があって、今日から受けようと思って」
「そうなの」
彼は意外だというように、
「どこの学部?」
気安く言う。
「法学部」
軽く仰け反る姿勢を見せる彼。
「そう。法学部何学科?」
「政治学科」
「すごいね。でも何でこの授業に興味があるの」
「本当は文学部が志望だったんです。でも落ちちゃって」
「文学部を落ちて法学部、それも政治学科に? そういうこともあるんだね」
「よくあることですよ」
「聞いていいかな」
少し気取って翔太は横目で私を見る。
「英文学が好きなの」
「ええ、『ジェーン・エア』を読んで以来。あとシェイクスピアを学びたかったんです」