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第15話

 芙美子と別れ、全身にこれまで体験したこともないような疲労を覚えながら家に帰った。人を殺めたときの倦怠感に似ていなくもなかったが、それにさらに不安要素が混じっている。私は自分の犯罪には自信を持っていた。不安要素はこれまで抱いたことはなかった。何が仲間だ。疫病神め。

 疲れ切った心身を解きほぐすために、豪華な服を脱ぎ捨てるとすぐシャワー室に入った。下着を脱ぎ、そのままシャワー室に入る。温度はぬるめに設定した。今日は気候もひどくなまぬるかった。

 私の肌は白い。この白く、幼い子ども特有のぷっくりとした柔らかさが、あれらをたまらなくさせた。何回私はあれらに汚されたことだろう。

 体にも自分の存在そのものにも、生きている価値を欠片も感じなかったので、私は思春期の頃はよくカッターナイフで自傷することがあった。今は恥ずべき記憶だ。私が救われたのは、憎しみをばねにして生きていてもいいのだとはっきりと悟ったときだった。

 憎む方よりも憎まれる方が悪いに決まっている。

 芙美子が美貌と呼んだように、私は優れた容姿を持っている。少なくとも平凡ではない。確かに男を惑わせるのは楽なことだった。

 身の毛がよだつほど嫌悪を抱く男たちに身体をいったんはまかせるのも、彼らがこの体や容姿を好んでいるという要素があってのことだ。

 たとえその後に目的があるとしても、私に一時でも心を奪われないような男は願い下げだった。

 芙美子のことを思った。

 確かに芙美子は小づくりで華やいだところはない。男を惹きつけるのに向いた容姿というわけではなかった。

 私は、彼女への嫌悪は別として、彼女を美しいと思う。だが、それが男の好みかというとそうはならないことも分かっていた。

 芙美子に会ったことで、子どもだった頃の記憶がちりじりに浮かび上がってくる。

 芙美子は教室で5、6人の女子のグループに属し、私を招き入れようとしていた。

 芙美子以外のクラスメートの顔と名前はすでに記憶の彼方。

 私には無関係なものだった。

 ただ、私は小学校の卒業式で芙美子が片手で持っていた「寄せ書き」の文面をちらりと見てしまったことがある。

『死ね』『シネ』『いんらん』『私生児』『れいぷ』。その意味を書き手はよく理解していただろうか。おそらくは自分の親の言葉をそのまま書きだしたものだった。

 あの頃流行った「寄せ書き」。

 芙美子がどんな気持ちでそれを書入れてもらったのかは知らないが、芙美子はそれで思い知ったことだろう。表面上「友だち」として接していたクラスメートたちの本音を。

 その時の芙美子の目は、確かに私と同じ目をしていた。

 赤根眞理子の息子が、あの大学の学生であるらしい。

 私は思いだす。

 悪さをした罰だとして、神に背いた罰だとして、剣山を握らされた幼い日のことを。

 小学校以前は今思えば虐待の日々だった。どんな悪さをした? そもそものきっかけが思い出せない。

 暗い場所にバケツと剣山があり、それを握りしめるよう要求された場面は記憶に浮かぶ。子供心にまさか本気とは思わなかった。きっと脅しだろう。神に背くとこうなるよ、ということを教えるためにやっているのだろうとどこか救いを求めていた。けれど違った。剣山を握ってためらう私に業を煮やしたのか、あの赤根眞理子は自分の手で私の手を上から摑み押さえつけた。

 悲鳴が礼拝堂に響き渡ったが、自分の声という気がしなかった。虚けたようにその悲鳴の反響を聞き、手のひらに空いた小さな穴から真っ赤な血が流れだすのを見た。

 痛さも忘れるような恐怖。

 神への恐怖はすぐに神への憎しみに変わった。

 放心しつつも顔色を変えない私をよほど憎く感じたのだろう。赤根眞理子は今度は私のもう片方の手、利き手の方を手首から摑んだ。

 次を覚悟したとき、礼拝堂の入り口で声がした。

「ママ、ここにいるの」

 男の子の声のように聞こえた。

「今行くわ。先に母屋に帰ってなさい」

 聞いたこともないような優しい声。

 私はその後のことをよく覚えていない。恐怖と精神的ショックで記憶が途切れたのだろう。夜中、ひどく痛む、おざなりな手当の施された左手を投げ出して涙を押し殺しつづけた。まるで左手が、ちょうど、そう、片手だけ肥大化した海の蟹、シオマネキのように大きくなったように感じながら。

 赤根眞理子は間違いなく悪魔であり、また恐ろしい神だった。

 芙美子にとっての寄せ書きと、私の剣山は通じるものがあるということか。

 ともかく、あのときあの赤根眞理子を「ママ」と呼んだ男児が今この大学の学生であるのなら、それは探り当てたい好奇心を刺激するものだった。

 そして、もしかしたらその子の父親は芙美子の父親かもしれないのだ。

 口元から笑いがこぼれる。

 こんな面白い話がある?

 思いがけず、疫病神からもたらされた情報にこんなに暗い喜びを抱くのは、私も疫病神である証しかもしれない。

 赤根眞理子は離れ(母屋と呼んでいた)で暮らし、家族の情報は明かさなかった。だから、ごく近くに住んでいても、私たち施設の子どもは、驚くほど赤根眞理子の素性を知らないままに来ていた。

 スマホを取り、芙美子に電話をする。使えるものは使えばいいのだ。

「芙美子? 私だけど、赤根眞理子の息子の情報、何でもいいから教えて。それから頼みがあるの」

 受話器の向こうの芙美子の息が弾んだ。

「そう来なくっちゃね。で、頼みってのは? いつもの探偵に依頼してもいいわよ」

「そうね」

 私は考え込んだ。

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