銀座で下車した。もちろん佐久間と飲むつもりで共に。
「部長って、銀座にお詳しいんですか」
「うん、僕が九州出身なのは知ってるよね。でも父の仕事の関係でよく出張で上京することがあって。よく親父に連れてきてもらったんだ。子供の頃は良さが分からなかったけど、やっぱり独特の落ち着きがあるというか、いいものだね。」
九州から親の仕事の関係で上京し、銀座やおそらく他の有名な場所も一緒に歩いていた幼き頃の佐久間。考えるだけで胸が苦しくなる。私は思わず目を瞑った。
「どうしたの」
それに気づいた佐久間が心配そうにのぞき込む。
「いえ、ちょっと眩しかったから」
「落ち着いているけど、華やかさがある街だね」
佐久間は勝手知ったる様子ですたすたと歩き、ある細い横道に入った。
「ここは一見さんお断りのこだわりの店なんだ。実は親父の知り合いでね」
「すごい、そうなんですか」
木造の古い家に見えたその門をくぐると、こんな街中に小さいながらよく手入れされた日本庭園がある。鹿威しの音が微かに響く。
「あら、佐久間さんのお坊ちゃん」
「お坊ちゃんはやめてよ。もう大学生だよ」
先日の芙美子よりも数段品のよい着物を正しく身につけた女性が「奥の間が開いておりますよ」と声をかけた。
きれいに磨き上げられた廊下を行くと、ふすまが開けられ、八畳ほどの日本間が現われた。
これまでの中でも上客かもしれない。しかも学生の身分で。私は唇を噛んだ。
座卓に向かい合った。
「私……」
小さく言った。
「こういうお店だとは思いもかけなくて。どこか、私似合っていないかしら」
「どこが。完璧だよ」
佐久間は快活に笑う。
お膳が来ると二人で向かい合って静かに箸を運んだ。
「箸づかいがうまいね。育ちの良さが出ている」
「そんな」
割りばしの洗いざらしで食餌を摂っていたかつての日々。
「あの、さっきのコンサートですけど、本当に素晴らしかったですね。私は特に……」
「ああ、でもチェリストが少し劣っていたのが残念だよ」
私には続きを言うことはできなかった。
ハンドバッグの中の小さなビンを意識する。
今日か、いやそれでは危険すぎる。もう少し待つ必要がある。
「どうしたの。もっと食べなよ」
「ええ、とても美味しいです」
「お酒は」
「日本酒をいただきたいわ」
「いける口だね」
佐久間は満足そうに笑った。
日本酒は美味しい。それを教えてくれたのは、あのカエルのようなぶよぶよとした体形のおじさまだった。人の良さそうなようすに、最初はターゲットから外そうかと逡巡したくらいだった。
でも、決定的な一言。
やがて始まった部下の一人の愚痴とも悪口ともつかない会話の中で、彼はこういった。
「やっぱりねぇ、片親ってのはどこかいびつなんだよ」
その一言がなければ、私の犠牲になることはなかったのに。
私は知らず知らず暗い表情に陥っていたらしい。
「どうしたの。……あんまり楽しくない」
「いえ、でも、ちょっと緊張しているだけです」
私はもう一度笑顔を作った。単純な男はそれでいったん止めた話を再開した。
部員の噂話。
本当に噂話が好きなのは女性よりも男性だ。本当に嫉妬とはりあいで生きているのも女性ではなく男性。私はそう考える。
ただの罪のない話ならまだ耐えられる。
でも、身の上や出身高校や、お家の懐事情。
同情を兼ねているならまだしもだが、明らかに高みに立って論じている。
──そんなに「生まれ」って大事ですか。「育ち」って大事ですか。
心の中で冷ややかに思う。親の名前も、どういう人だったのかも知らない私。知ったところでどうせ今の自分を思えば碌なものではなかっただろう幻の両親。
レイプ犯の血を半分受け継いでいる芙美子を思った。
血の呪い。遺伝子の呪い。
それを意識しないで生きているわけがない。
佐久間は部長としての立場を利用して皆の秘密を聞きだしていたのだろう。こんな大したこともないような小サークルでも、厳然とした見えないヒエラルキーがあるのだということは当初から感じていたことだ。
私のことはこれまで眼中にもなかったからちょっかいも出さなかったのだろう。そういうところに透けて見えるものも、私の嫌悪感を掻き立てるのに十分だった。
けれど、私の中で高まりゆくモチベーションはここで断ち切られた。私のスマホが振動した。
「電話?」
「あ、すみません。出てもいいですか」
立ちあがって外廊下に出た。日本庭園がところどころ静かにライトアップされ、水音と微かな鹿威しの音が聴こえていた。
「何の用なの」
私は声を押し殺してつっけんどんに言った。
「そう怒らないで」
芙美子のふざけたような声音が癪に障る。
「あんなの相手にするなんて、本来のあなたじゃないよ。花蓮ちゃん」
ぎくりとした。
「あなたはもっと大きな野望を持ってしかるべき人。ねえ、そうでしょ」
「買い被りよ」
言いながらも急速に自分の中の佐久間に対する興味が失われていくのを感じていた。
「だから、私と手を組まない。私が、本来のあなたに戻してあげる」
その言葉は、悔しいが魅力的だった。
そうだ、私はいつからこんなつまらない男だけを相手にするようになっていたのだろう。