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第11話

 場内が暗くなり、コンサートは不意に始まった。私は目を閉じて音色に聴き入る。私には音楽の、ましてやクラシック音楽の素養はない。演奏される曲目は事前にプログラムで確認はしていたが、もう覚えてもいない。手元のそれに目を凝らせば分かるだろうが、そんなことには興味がなかった。作曲家の名前も、演奏家の名前も知らない。曲名を聞いたことはある、という程度のものだった。

 けれど、私はこういう場が好きだ。

 あの私の葬った中年男と来たとき以来、気に入って自分で訪れることさえあった。カモフラージュとはいえ、音楽鑑賞サークルに入ったのもこの経験が大きい。

 音は振動である。

 全身をその数多の交錯から生まれつつ自分を包み揺り動かす振動に委ねる。

 何という心地よさ。

 目をつぶるのは「絵」を楽しむためだ。イメージが瞼のうちで視覚化され、幾重にも複雑に動き、ときには草原をかたまりのように吹きすぎる風、時には宇宙の果てを思わせる深奥、そして時にはピンクのバラの花が咲き乱れる中を滑り落ちる朝露。

 その「絵」を存分に楽しむことは私にとって音楽を聴くことと同義だった。

 なぶるような振動に身を任せる時、私は己が生きていると感じ、また生きていることに喜びを感じる。

 私は一時でも今日の目的を忘れるくらいに音楽に耽溺した。

 だが、我を忘れていた私は、私の左手にそっと触れた生暖かいものに心底心臓をつかまれた。

 来た。

 狙っていた通りの展開。にもかかわらずこの展開に不快感を覚える自分。

 佐久間が暗闇の中でそっと私の左手に触れ、最初は軽く、やがて強く握ったのだった。私は一度開いた目をもう一度瞑り、ぐっと力を込めて握りかえした。

 彼の人差指が私の手の腹にすっと線を描く。それからまさぐるように五つの指が私の手のひらで踊った。

 私は目を瞑ったまま、左手の指を軽く泳がせ、感じているということを伝えた。

 他の部員たちは誰もこのことに気づいてはいないだろう。

 私の音楽を聴くことのできた至福の時間は終わった。

 その後、彼の指と私の指は絡まり合いながら、ずっと戯れを繰り返し、音楽は完全にバックグラウンドミュージックと化した。

 不意に目尻に熱いものを感じたが私は堪えた。

 今夜のターゲットはこれで決まったのだから、何も嘆く必要はない。

 すべての演奏が終わると、私は鉛玉を飲みこんだような心地だったが、佐久間の方を見て晴れやかに笑って見せた。

 その後の佐久間の振る舞いの滑稽さといったらなかった。

 予約しておいた上野の有名店に徒歩で向かったが、まるで部長の任務を忘れたように私の横にべったりとはりついてしきりに話しかけてくる。その内容の低劣さときたら。

 断ち切られたとはいえ初めの余韻を味わいたかった私にはまるで払っても払ってもしつこくたかってくる蛾か何かのような存在だった。

 けれど私はそのことはおくびにも出さず、静かに微笑みつづけた。頬がほんのりと色づいているに違いない。怒りを抑えこんでいるところから出てくる色だとは誰も気が付きもしまい。

 男たちも女たちも、そういう佐久間のようすに内心では苦虫をかみつぶしたような思いに違いなかった。

 洒落たレトロな喫茶店だった。このサークルでは飲む人はあまりいないので、こういう場所にしたのだろう。

 女性たちは「おしゃれ」「かわいい」と歓声を上げる。男たちも「へえー、いい趣味してんじゃん、佐久間」と声をかける。

 赤を基調とした絨毯の敷かれた喫茶店。調度品とも言い得るような内装。老舗の喫茶店らしかった。

 私の出で立ちはここではやや浮いている。それでもそんなことは佐久間にはどうでもいいらしかった。

 そして私が心底失望したのは、ここで交わされる部員たちの会話が、先ほどの素晴らしい演奏会のことではなく、学校の単位がどうしたの、ここに来ていない部員の噂や多少ゴシップめいた話だの、こんなことに時間を取られること自体が屈辱とした思えないものだったことだ。

 緩やかな失望が自分を覆うのを感じる。

 経済的にも文化環境的にも極めて恵まれた生い立ちを持つ者たちがほとんどだ、にもかかわらず、この連中はそういう自分の境遇を振りかえりもしなければ、そもそも自覚もしていない。

 そう、峰岸を筆頭に。

 いつも部長として部員たちの中では「音楽好きで素養もある人」と目されていた彼だった。

 でも今日、私にはすでに化けの皮は剥がれていた。

 帰り道、上野駅でそれぞれの帰る路線がばらばらになった。私は銀座線に乗りたかった。行き先ごとにそれぞれが組になったとき、私と同じ路線を選んだのは佐久間だけだった。

 本当のことなのか、計算ずくのことなのか。

 それはすぐに分かった。

 電車は会社帰りの人たちで混んでいるほうだった。

 佐久間は最初はつつましく黙っていたが、そっと私の肩に手をやった。

「湯原さん、行き先はどこ」

「四谷です」

「時間、大丈夫だったらさ、少し飲まない。途中下車して」

 少し黙った後、私はうつむいたまま首を縦に振った。

 肩にかけた佐久間の手に力がこもる。

「それにしてもさ、今日は驚いたよ」

「え」

「そんなきれいな、お嬢様みたいな恰好でくるんだから」

 ふふ、と笑いが漏れる。

「どうして大学に行くときは全然違う恰好なのかってことですよね」

 答えがやや意外だったらしく、目を丸くしてうなずく佐久間。

「両親から言われているんです。大学は勉学の場。おしゃれなどしてはいけないと。ふふ、私の両親て、少し変わり者で頑固者なんですよ」

 おかしくてたまらないような、少しいたずらっ気もこめた笑いを見せた。

「実は本当にお嬢さんなんだね」

「ええ。でも世間を知らないわけではないです」

 私は含みを込めて答えた。


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