縣教授のことは私の失敗として心の中で処理した。私が失敗を犯すなど、初めてのことだった。それにかかわったのがあのふみこ。今は秋山芙美子。冴えない地味で小づくりの顔立ちだった女は、ある種の美貌ともとれるような、けれどのっぺらぼうのような特殊な女となっていた。
私は今日も洗いざらしの水色のシャツに裾の擦れたジーパンという出で立ちで、薄汚れたスニーカーでキャンパスに足を運ぶ。見た目は不格好な大きめのボストンバッグ。中には重い教科書が入っている。
縣教授は代講となっていたが、もう出る気もしない。単位一つを落とすのが何だろう。大学での私は、高校までのように人を避けはしなかったが、良家の子女の多いこの大学では私に近づく者もほとんどいなかった。
獲物はこれまでは街で拾った。このキャンパスで探すつもりはなかった。縣教授を狙ったのは、あの自己欺瞞に満ちた講義を聞いたから。でも、ほんのお遊び程度のものだった。そう、さほどは彼を憎んではいなかったことを、彼の突然死の後に私は気づいた。
本来の私よ、目覚めよ。
芙美子の登場はいささか日常に飽いていた私の渇望を呼び覚ますに十分なものだった。
私は図書館に真っすぐに向かった。図書館は学生証がないと入れない仕組みだが、私はゲートの前で芙美子を待つ。彼女が来た。彼女も撚れたいかにも安物のワンピースを着ていた。私が学生証の磁気カードを通し、彼女もその後に続いて中に入る。年齢からして怪しそうなところはないので、見咎められる心配はない。友人同士なら、一人が通って仲間もそのまま続くことはままあることだった。駅の自動改札とは違う。
私は予約していた会議室の手続きをして中に入った。芙美子も続く。彼女は珍しそうに周囲を眺めた。大学の構内は案外密談に向いている。
「うれしい。花蓮ちゃんが私を呼び出してくれるなんて」
「ここがいちばん安全なの。何でも話していいから」
「ふ、うん」
芙美子の少し茶化したような口調に苛立つ。
「うまく入りこんだと思ってるでしょう」
「何が? 私がこの図書館に入ったことが?」
「違う。私がこの大学の学生であること」
「ふさわしいじゃない。花蓮ちゃんは小学生の頃から際立って聡明だった。皆が陰口を聞いても興味も示さなかった。でも、分かるでしょ。あの連中、あなたを底辺の生まれだと思っていたから妬みに妬んだの。もしあなたがあなたにふさわしい上流の生まれなら、あいつらはこぞってあなたに媚びたはず。……そんなことは今さら私が言わなくても十分に分かっていたことでしょ」
「ふん」
鼻であしらいつつも、私は下駄箱の靴に汚物をなすりつけられていたことや、画鋲が針を上にしていくつも入れられていたことをふと思い出した。忘れていたことなのに。
「こんな大学の人たちはそんな低級なことはしないんでしょうね」
「さあ。今も私は関係は持っていないし。でも、一皮むけば下劣さや下品さは出てくるでしょう」
「縣さんみたいに」
「その話はやめて」
彼女のしてやったりというような表情を想定して私はさえぎった。そしてさっさと話を切り出す。
「それで、話は」
まどろっこしいのは苦手だ、特にこういう女には。
「手を組みたいの。ううん、私にも手伝い、いや違う、仲間よ」
案外に夢物語のような言葉が芙美子の口から出てきたことに驚いた。
私は意図的に沈黙した。そうしてもう一歩彼女の出方を待った。
「困ってるのね」
芙美子は薄気味悪く笑う。こういうとき、彼女ののっぺらぼうが際立つ。
「いい? 私はあなたの秘密を知ってるのよ」
頭に血が上った。
「脅しなの」
「まさか」
「私も芙美子のこと、知ってるわよ」
「何の証拠があるの」
芙美子の真情を図りかねる。私はもう一度彼女の顔貌を観察した。表情はあるのに、本心はのっぺらぼうにしか見えない。油断がならない女だ。そして、これまでの私の自負心を脅かしかねない女でもある。
「奥歯にものの挟まったような言い方はなし。この場所は密談に最適なんでしょ」
「私の何を知っているというの」
努めて落ち着いた声を出して私は問うが、芙美子は急に花が咲くような笑みを見せた。
「全部、よ」
私自身がそう感じていたがゆえに、それ以上このことを問うのは無意味と思われた。
「分かった。組んであげる」
「相変わらずお高いのね」
そう言いながらも芙美子は目を細め、満足気であった。
*
その十日後、私は探偵からの報告の第一報を封書で受け取った。紙の報告を希望したのは証拠を残さないためだ。
そこには芙美子の数枚の写真。芙美子の生い立ち、中学を出た後の足跡が書かれていた。それを読むと、芙美子の語った大方のことは偽りではない。
確かに戸籍上彼女の父は不明になっていた。芙美子の母は父のない子として芙美子を届け出ている。
幼い頃の芙美子のぼやけた写真のコピーも添えられていた。彼女は自分自身が明確な被写体となった写真を持っていない。けれど、どの写真でも、彼女はまるであどけないように笑っている。
「今写真に撮られていることを意識しているのだ」
私は直感した。
私とクラスメイトだった頃の彼女の写真もある。これは見覚えがあった。
その中の一枚に背筋が凍る。
私を撮った写真。校内の運動会か何かだったと思う。駆けっこでいちばんだったことを記念してその時に記念に撮られたものだ。私もかつては一枚持っていた写真だ。どこかで処分したはずだが。
その背後に、写真を撮られる私を凝視する芙美子も写っていたのだ。当時は気にも留めなかった。しかし今見直すと、彼女は明確に写真を撮る教師ではなく、この私を見ているのだ。何かが奇妙。何てこともない光景なのに、今ここにきてそんな思いにとらわれるとは。